傘を打つ雨の音は途切れず、わたしはぼんやりと立ち尽くしたまま瑞々しく濡れた世界を眺めていた。
 信号は赤。警鐘を響かせるように強い赤が、雨に濡れて輪郭を滲ませている。


 こんな雨の日には図らずも思い出してしまう。あの日のわたし自身を。

 あの日まで確かに彼に触れられたはずの指先は今や虚しく空を切り、わたしの声が彼に届く事も、彼の声がわたしの胸を震わせる事も、もう、無い。



 ミチル、とわたしを呼ぶ彼の穏やかな声が好きだった。遠慮がちな、何かに怯えているようにすら感じさせる控えめで穏やかな声。

「ミチル、危ないよ」
「だあいじょーぶだよ、アキトは心配性だなぁ」
「そういう問題じゃないだろ。ほら、こっち」

 酔っぱらって真夜中の横断歩道をふらふらと歩くわたしの腕を掴んで、彼が諫める。

「ミチル、『注意一秒、怪我一生』って標語知らないの?」
「知ってるよー」
「だったらシャンと歩く! …まあ、仕事モードのミチルより酔っぱらいのミチルのが可愛げがあるけどね」
「なによそれ、普段のわたしが可愛くないみたいじゃない」
「あ、信号赤だ」

 明滅する赤信号。腕を引き寄せられたわたしの真横を、ふいに、バイクがギュンと通り過ぎた。

「ビックリした…」
「ほら言わんこっちゃない。そろそろタクシー乗るよ。歩いてる間に終電逃しちゃったし。…それとも、」

 彼の言葉に、わたしはふと立ち止まって静かに首を振った。縦に、ではない。左右に、だ。

 どんなに酔っぱらっても、彼と楽しく飲み明かしても、手を繋いでも唇を重ねても。わたしは彼の言葉には頷けない。こうして別れの時間が来るたびに、魔法が解けたシンデレラみたいに、わたしの微熱まじりの酔いは醒めてゆく。

「彼女、こんな時間まで連絡ないんじゃきっと心配してるよ。電話してあげて」
「…ミチル」
「わたし、歩いて帰るから」
「だって」
「いいの平気、帰り道はいつも一人だもの」

 わたしは俯いたまま言った。今、彼は傷付いた顔をしているのだろう。彼女と、それからわたしを裏切り傷付けながら、優しくて頼りなくてどうしようもなく狡いこの男は、世界で一番悲しいのはこの自分だと言わんばかりに傷付いた顔をしているに違いない。

 わたしは顔を上げた。

「好きだったよ、アキトの事」
「…え?」
「じゃあ、またね。また連絡する」

 わたしはくるりと踵を返すと、呆然とする彼を余所に駅前で客待ちしているタクシーにさっさと乗り込んだ。座席に漂う独特の落ち着かない匂いを吸い込んで、わたしは携帯を開いた。
 のろのろと酔った指先を動かして、彼の連絡先を消去する。これから先、彼から連絡が来る事はないだろう。今までだって、わたしから「会いたい」と言わなければふたりきりで会う事などなかったのだから。
 頭が、目が、指先が当たり前のように憶えているこの番号や英数字の羅列を、ただ画面上から消し去る事に意味があるのかはわからない。でも、それでも、わたしにはそうするより他なかった。

 降ってきちゃいましたね、とワイパーを作動させながら小声で呟く運転手に、わたしは「そうですね」と呻くように答えるのが精一杯だった。



あの日のワタシが、
いまのワタシの背中を押す


 あの日、あの夜と同じように、静かに、濃やかに雨が降る。傘を打つ音も寂しげに、しのしの、しのしのと果てしなく。

 わたしは歩き出す。信号は青。注意一秒、怪我一生とは上手く言ったものだ。あの時、頭の中で明滅する赤信号を無視して彼の元へと駆け抜けていたら、わたしは今でも彼の腕の中から脱け出せずにいたはずだから。今のように新たな恋を知る由もなく、その場で足踏みするしか出来ないままでいたはずだから。

 雨に濡れて滲む青信号に背中を押されたように、わたしは薬指に指輪の光る手で傘をしっかり握り直し、踵を鳴らして歩き出した。

-END-

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