ざ…、と、寄せては返す波音が耳を掠める。私は上体を起こし夜天を仰いだ。カーテン越しに見える月は、凍てついた雫を落としそうに冴々と輝いている。

 響くのは途切れる事のない潮騒だけ。あのひとを想うと、焦がれるような恋心より、曇り硝子のように透かして見えない未来を憂う気持ちばかりが疼いて気がふさいでしまう。

 ――いずれは此処を去ってゆくひと。私などには決して手の届かない、生まれながらに光り輝いているひと。


「…こんばんは」

 とんとん、とノックの音がして、ドアの向こうから痺れるように低く甘やかな声がした。私ははっと面を上げる。あのひとだ。私がこの声を聞き違える筈がない。

「入るよ」

 夜の帳を滑らかにすり抜けて、柔らかに、笑みを含んだ声であなたは言う。つい今しがた世を照らしていた月が翳って見える程に、目映く光り輝くひと。
 私には眩しすぎるその光に捕われてしまわぬよう、私は俯き、黙したままシーツの波を脱け出した。

「相変わらず、君は淋しそうな顔をしてるね。…何か思い煩う事でも?」
「違うの、そうじゃなくて」
「僕を想うあまりの恋の病、かな」

 くつくつと喉の奥で笑いながら、あなたは勝手にカーテンを開いて月光を部屋に導いた。銀の鱗をした人魚がたゆたう水底のような室内に、真っ直ぐに月光が降り注ぐ。

「ねえ、君から連絡をくれなくなったのは何故?」
「だって、あなたは…」
「ん?」

 覗き込むように見つめられ、私は返事に詰まって視線を逸らした。だって、あなたは私だけのものではないから。蝶のように、浮草のように、飽きたら此処を去ってゆく。それが解っていて、想いを繋げるのが苦しいのだ。見えない未来を信じるのが辛いのだ。

「僕もね、君を想うと心が千々に乱れてしまうよ。…どうか顔を見せて」
「だめ、」
「往生際が悪いね」

 僕の事が好きで堪らないくせに、と意地悪く笑いながら、あなたは涼やかな双眸で私を見つめる。歪んだ笑みとは裏腹に、何処か切なげで慈しむような眼差しで。

 ざざ、と、遠く響く潮騒が私の身体の中で谺し、そして私を満たしてゆく。
 いま私は、引き返せない場所に立っている。想えば想う程苦悩するに違いないと解っていながら、どうしようもなく恋い焦がれていたそのひとの腕の中に私はいま囚われている。籠の中に閉じ込められた小鳥のように。


 私の瞳からはたはたと溢れだした涙をシャツの袖で拭って、あなたは優しく私を抱き寄せた。

「泣くのをやめて」

 やがて、あなたのあたたかな唇がそっと私の唇に触れた。これまで決して越える事のなかった境界線が、あっさりと破られてしまったのだ。抗えない恋心に眩暈を憶えつつ、私は、静かに瞼を下ろした。

-END-

蜜月様へ提出
 ┗光る君(源氏物語)
▼あとがき
 光源氏が須磨に流された時に出会った明石の君をモチーフに書いてみました。明石の君の父親に引き合わされて二人は文のやり取りをしていたようですが、最初は明石の君が光源氏との身分の差を気に病んでなかなか『会う』には至らなかったそうで。実際、都では光源氏にとって最愛の妻である紫の上が彼の帰りを待っていた訳ですし。明石の君も、自分の想いや父の思惑に従って良いのか相当悩んだのではないかと思います。
 このようなお題は初めてで難しかったですが、とても楽しかったです!上手く自分の世界として表現出来ているか不安ですが…これが今の私の精一杯の力量という事で(苦笑)。感謝!



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