学校まであと数十メートル。
校門まで続くなだらかな坂道に差し掛かって重くなったペダルを、悠吾が力いっぱい踏み込んだ。私は、口を噤んだまま、その制服に包まれた背中をそっと抱きしめる。
「お前、降りる気とかねーの?」
口端を歪めて笑いながら、悠吾がサドルから立ち上がる。するりと離れた私の腕は、行き場を失くして私の膝に戻った。紺色のスカートのプリーツを、これと言って意味もなく撫で付ける。そして、ぼんやり坂道から見える海を眺めながら私は言った。
「あー、今日も海が綺麗だねえ。その調子で頑張れ悠吾ー」
「じゃあお前はダイエット頑張れよな。マジで重てぇ、重たすぎ。チャリ壊れんじゃね?」
年頃の女子に浴びせるには失礼過ぎる言葉を遠慮なくぶつけながらも、意地っ張りな悠吾は自転車を漕ぐのをやめようとはしない。
遠くで繰り返す潮騒。初夏の陽射しを受ける木立。自転車の車輪が軋む音。悠吾と私のあいだを吹き抜けてゆく風。
世界じゅうすべてが、まるでスローモーションのようにゆっくりと動く。私は目を閉じた。なんだか勿体無かった。何が、と言われても説明できないけれど、目を開けて世界を見るより、瞼を下ろして音だけを感じていたかった。
やがて、ガタンとサドルごと体が大きく振動して、悠吾の勝ち誇ったような声で私は我に返った。
「よし着いた! あー疲れた、毎日毎日朝から何の罰ゲームだよって話。渚お前、今日こそ昼飯奢れよな。いちごオレとシュガートーストと、あとカレーパンがいい」
「財布持ってきてないし」
「はぁ?」
「じゃあね。送ってくれてありがとう。…佐山さんに悪かったかな」
「べ、別にアイツはこんぐらいの事で怒んねーよ」
私の最後の言葉に、悠吾が急に照れたように口を尖らせる。
佐山さん、は、悠吾の彼女だ。悠吾がずっと佐山さんを好きだった事も、悠吾が佐山さんのどんなところが好きなのかも、佐山さんに何と言って告白したのかも、私はみんな知っている。
ひとつ年上の悠吾とは、家がお隣同士の幼なじみだ。漫画にでも出てきそうなシチュエーション。
親同士も仲が良くて、子供達が小さい頃は、お互いの家の鍵を預けあっていたくらいだ。私はそれこそ漫画みたいに、まるで当たり前の事のように、年を重ねるにつれ悠吾をどんどん好きになっていった。
勉強はイマイチだけど、音楽が好きでギターと歌は結構上手な悠吾。
エビの天ぷらは嫌いなはずなのに、エビフライなら人の分まで平気で横取りする悠吾。
母親譲りの女顔で、嘘をつく時大きな瞳をくるりと動かしてごまかす悠吾。
口振りは乱暴でも、絶対的に優しい悠吾。
佐山さんの事を話す時、ぶっきらぼうな口調のくせに『好き』が溢れて仕方がない表情をする悠吾。
ああ、こんなにも、幾らだって彼を想う事はできるのに。でも、想ったってどうしようもないのに。私がこのままで居る事で、いつか悠吾も佐山さんも傷つけてしまうかも知れない。そうなったら、私自身だって返り血を浴びるかも知れない。私は何をやっているのだろう。
「あ、渚ちゃんおはよう」
柔らかな声に、私はハッとして顔を上げた。同じクラスの佐山さんだった。そう、悠吾の好きな、悠吾を好きな、佐山さん。
私は取り繕った笑みで挨拶を返すと、小さな声で呟いた。
「…ちゃんと、しなきゃ」
途端、開け放たれた窓から潮風が吹き込んだ。髪が突風にあおがれてバサバサに乱れる。きゃあ、と声を上げて髪を押さえる佐山さんを横目に、私は涙を堪えて俯いた。
「ん? 渚ちゃん今何か言ったよね? ごめん、急に風吹いてきたから聞こえなかったよ」
「ううん、違うの。ひとりごと」
そっか、と頷く佐山さんを見つめながら、私は喉の奥で暴れだしそうになる嗚咽を堪えていた。
毎朝の日課だった悠吾との自転車通学も、悠吾の部屋でギターを聞かせてもらうのも、親が留守の晩に一緒に夕飯を食べるのも、もうおしまいだ。今日でおしまいにしよう。
教室の自分の席について、私は窓から見える水平線を眺めてそっとため息を落とした。家に帰ったら思い切り泣き喚いてやろう、と、密かに心に決めながら。
-END-
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