わたしは目を閉じる。

 近付いてはならない、と、覗き見てはならない、と、禁じられた誓いほど犯してしまいたくなるのは何故だろう。


 聴こえてくるのは柔らかな旋律。名前の無い、あぶくのように生まれては消える即興曲。
 鍵盤を泳ぐあなたの手元を思い浮かべる。指の長い、ピアノ弾きの手。薬指に淡く光る銀色のリング。それを引き抜く事はわたしには出来なかったけれど、あなたの指先は鍵盤に触れている時が一等美しいという事を知っているのは、この世界でわたし一人だ。


 ゆるゆるとした水の檻に閉じ込められたように幸せな、否、幸せだったあなたとの空間。名残惜しむ瞼を押し開けて、わたしは立ち上がった。

「…行くんだね」

 ぱたりと指を止めてあなたは笑う。初めて出会った時と寸分違わぬ、優しい、でも何処か淋しげな表情で。

「ええ。だけど、引き止めてはくれないんでしょう?」
「そうだね。…僕にはそんな権利は無いから」

 呟いて、あなたは、ぽーん、と黒鍵を叩く。凛と澄んだ音色。再び旋律が紡ぎだされる。あなただけが奏でる名も無き譜。

 嗚呼、わたしとあなたは、一瞬でも想い合えたのだろうか。わたしが身を焦がすようにあなたを想ったような、そんな瞬間があなたにもあったのだろうか。

 すべては今更考えても詮無い事。すべては、あぶくのように消え去っていった出来事なのだから。

「さよなら」

 わたしは漆黒のピアノの横を、そしてあなたの横をすり抜け扉を開けた。外は暗闇だ。月も星も無い夜。あなたの瞳のように、ピアノのように深く暗い漆黒の夜。

 涙は出なかった。最初から終わりが見えていた恋だから。強がりでも偽りでもなくそれが本心だった。



 今でも時折、わたしの耳の奥であなたの奏でる無題の即興曲が谺する。胸の奥で宿った火が、身体中を焦がすような恋だった。
 …忘れたい。忘れたくない。忘れられない。忘れてしまいたい。
 そうして、せめぎあう想いはあぶくとなって融けてゆく。





-END-

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▼title/確かに恋だった



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