不意に、唇が降ってきた。

 どうやら油断していたらしい。僕は髪を鷲掴みにされたみたいに現実に立ち返らされて、指に挟んでいた煙草を取り落としてしまう。

「何考えてたの」

 彼女が、不機嫌を露にして問いかける。嬉しいとか寂しいとか妬ましいとか、どんな感情でも明け透けにしてしまえるところが彼女の魅力だとは思うけれど、いつだって僕はぼんやりと曖昧にしか返事が出来ない。

 ――ああ、呪縛だ。僕が嵌まってしまった、これは永遠に解けない甘やかな呪縛。

 僕は急に肌寒さを感じて、床に落ちていたシャツを羽織った。

「あのさ、前から思ってたんだけど。終わったらすぐ背中向けて煙草吸うのって感じ悪いよ」

 ぶすったれた声で彼女は言う。言われて初めて、そうか、それは悪い事をしてしまったなと思いながら煙草を枕元の灰皿に押し付ける。
 もういい帰るとか何とか言いながら彼女が苛立たしげに服を身に付ける衣擦れの音が、何処か遠い世界の出来事のように僕の耳朶を撫でた。

- - -

 まるで世界中ぜんぶ海の底に沈んでしまったように静かな、青い青い夜。
 君ははしゃぎ声をあげて笑う。頭をもたげて、世界との境界線を失ってしまった空を見上げる。

「あたしたち、くらげみたいね」

 僕は煙草を吸いながら、君の少し後ろを歩いて君の後頭部を見つめる。
 月さえも青く滲んで輪郭もおぼろに空に浮かぶ春の夜。閉店を告げられるまで安い居酒屋で飲むだけ飲んだせいで、君はいい案配に酔いどれている。何処までも静かな、青い夜。

「あたしたちは、ゆらゆら揺れて、ふわふわ、嘘か幻みたいに流れてくくらげ」
「…私たち、って、まさか僕も含まれてる?」

 あったりまえでしょー、と、君は陽気に笑う。春の夜の女神のようだ。朗らかで優しく、時に気まぐれで残酷。僕は君が好きだ。君もそうならいいのにと、何度願った事だろう。何度祈った事だろう。
 でも、どんなに願っても祈っても、僕と君が並んで手を繋ぐとか一緒に暮らすとか(そもそも指先を触れる事すら!)、そういう事はそれこそ嘘か幻だ。絵空事だ。だって君は別の人のものだから。…ああ、こんな言い方をしたら君は怒るかな、あたしは誰のものでもないって。まあ、でも、世間的な言い方をすれば君には配偶者と呼ばれる存在がある訳だから。

「一緒にしないで欲しいなあ」
(だってどうやったって君とは一緒に歩けないのだ)
「んーん、いっしょだよ」
「君が? 僕と?」

 僕の問い糾すような口調に、君が、青い夜の下でぴたりと歩みを止める。

「…そう。だから苦しいの。近くに寄れば寄るほど苦しくなるの。愛しくて息ができなくなる。だから、だから」

 僕は君の言葉の意味を解釈しようと酔った頭をフル回転させて、呼吸さえ出来なくなるくらい君を見つめる。
 思いの外、長い時間。煙草の灰が、微温い風に舞う。君が呟く。

「でも、あたしは帰らなくちゃ。帰らなきゃいけない場所があるから。…だから、さよなら…しなきゃ、だね」

 ふう、と息を落として、君はまた空を見上げる。音もなく風が吹き抜けて、青い世界が、ゆらり、揺らめいた。

 馬鹿げた話だ。まだ何も始まっていないのに。指先ひとつ触れていないのに。ああ、許されるなら今すぐ抱き寄せてキスをして、それから、



それは、永遠に解けない甘い呪縛。


「じゃあね、もう来ないから!」

 バサリと僕の脱ぎ散らかした服を投げ付けて、彼女が足音荒く部屋を出ていった。
 ああ、いつもの光景だ。誰と抱き合ってもキスをしても繋がっても、君の影がいつも僕の奥で青く柔らかに(そう、まるでくらげのように!)揺らめいて、僕はあれからぼんやりとしか生きられずにいる。

「…ねえ、まだ好きなんですがこの気持ちどうしましょう?」

 僕は脳裏をふわふわと泳ぐ柔らかなくらげに向かって呟きながら、冷たくなったシーツを手繰り寄せると、身体を小さく丸めて夜明けまで惰眠を貪る事に決めた。

-END-

覚醒様に提出
 ┗まだ好きなんですがこの気持ちどうしましょう



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