ねえ、キミ。
 いつまでも臆病風に吹かれて声ひとつ掛けられずにいる僕を、情けない男だって笑うかな。軽いとかキモいとか思われるのが怖くてなかなか踏み出せずにいる僕に、どうか力を貸して欲しいんだ。





「で、あたしにどうしろって言うの? 見ず知らずの山下君の片想いの相手の気持ちなんて、あたしに解る訳ないでしょうが」

 そう言うと、職場の先輩である未紗さんは空になったジョッキをだんっとテーブルに置いた。
 未紗さんはこの辺りではちょっと名の知れたタウン誌の記者兼編集者、僕はその雑誌に載せるお手頃価格でリッチ気分が味わえると評判のホテルランチや穴場的エステサロンや街で見掛けた美人のスナップを撮影する駆け出しのカメラマンだ。
実家の写真館を継ぐ前に世間様に出て修行して来やがれとの親父の言葉に従って今の職場に就職し、カメラの腕というよりも、職場や取材先で上手く立ち回る術だとか詰め込まれたスケジュールをいかに円滑にこなすかとか、そっちについて悩まされる毎日を送っている。

 そんな僕が恋をした。恋に落ちてしまった。

 お相手は、僕が仕事とは別に趣味でカメラを構えに行く公園で見掛けた、犬の散歩にいそしむ女の子だ。笑ったりムクれたり百面相で相棒の愛犬に話しかけたり、どうやら迷子になってしまったらしい子供のママを一緒に探してあげたりしている彼女。
愛犬がまた賢そうな穏やかな目をした老犬で、僕の彼女(つまり飼い主さん)への気持ちなんてとうに見透かされてるんじゃないかと、すれ違うたびにドギマギしてしまうのだ。


「何にせよ、その子に声掛けてみなきゃ始まらないでしょ。僕も犬好きなんですよーとかワンちゃんの写真撮らせて貰っていいですかーとか、当たり障りない雰囲気でさ」
「いや、いきなり話し掛けて軽いとかキモいとか思われたら嫌じゃないですか」
「あっそ。なら永遠にそうやってウジウジしてればいいじゃない。いちいちあたしに相談しないでよ」
「未紗さん男前だから、つい」
「やかましいわ。…にしても、あの公園で犬連れて散歩する女子っつったら知り合いにいるようないないような」
「はい?」

 とにかく何か進展あったら聞かせなさい、とピシャリと言いながら千円札を数枚テーブルに置いて未紗さんは立ち上がった。残された僕は、ビールを喉に流し込んでほうっとため息を落とした。


 川面を夕暮れの冷たい風が吹き抜けて、ぼんやりしていた僕はふと顔を上げた。柔らかな橙色の夕陽を受けて歩いてくる影がふたつ、視界の端に入る。
女の子と犬のシルエット。彼女だ。
僕はびくっと肩を震わせて二人を見つめた。老犬の優しげな眼差しが注がれて、僕はごくりと息を飲む。
 よし、頑張れ山下透! と、意気込んで立ち上がった僕に、なんと彼女の方から歩み寄ってきた。

「あ、あの!」
「え、あ、えーと…僕、ですか?」
「はいっ」

 彼女は、ぎゅっと愛犬の綱を握りしめると、真っ直ぐに僕を見つめた。

「あの、この公園でよく写真撮ってらっしゃいますよね。お仕事…なんですか?」
「や、カメラの仕事も本業でやってるんですけど、此処に来てるのは趣味っていうか、その、仕事とは別で」
「そうなんですか」

 ふわふわした肩までの髪を耳にかけて、彼女がぎこちなく微笑む。

「あたしもよく来るんです、鉄と一緒に。芝生が綺麗だしお散歩コース長くて運動になるし、アスレチックもあるから日曜日なんかは子供とかたくさん来てて楽しいし。あ、鉄っていうのはこの犬の名前です」
「テツっていうんだ。…その、実は、前からあなたとこの犬の事よく見掛けてて…お名前、何ていうのかなって思ってて」
「嘘」

 驚いたように目を瞠って僕を見つめる彼女の顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。

「すみません、あたし」

 どうしよう嬉しいな、と呟きながらわしゃわしゃと髪を掻く彼女に名刺を差し出して僕は言った。

「僕、山下透といいます。今のところ主にこのタウン誌の写真撮ったりブライダルスナップ撮ったり、一応カメラマンやってます」
「あたしは片瀬真優です。…あ、このタウン誌出してる会社って」

 僕の名刺を見て、彼女――カタセマユさん、が、ぽつりと呟く。

「未紗の会社だ」
「…未紗って、もしかして井上未紗さん、ですか?」
「そうそう井上未紗です! え、じゃあ山下さん、まさか未紗と知り合い…なんですか!?」

 目をまんまるくして叫んだ彼女の横で、おとなしく佇んでいたテツが、わふ、と低く吠えた。

「それで未紗、『知り合いにいるような』とか『絶対大丈夫!』とか…わかってたって事…?」

 何やらブツブツ呟く彼女をちらりと見やると、僕は不敵な笑みを寄越す未紗さんの顔を思い浮かべつつ、腰を屈めてテツの柔らかな背中を撫でた。


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