ねえ、鉄。
あたしだって、ひとりで悶々と妄想してるだけの日々は脱却しなきゃと思ってるんだよ? …でもでも、声掛けようって決意した次の瞬間にはまた悪い妄想が頭をよぎっちゃって、芽生えたはずのちっぽけな勇気なんてあっさりしぼんじゃうんだよ…。
「で、また鉄ちゃんと二人して彼を眺めて終わっちゃった、と。…ていうか鉄ちゃんはアンタんちの飼い犬なんだから『二人して』ってのは変か」
どーでもいいけど、と言いながら、友達の未紗がジョッキに残ったビールを飲み干した。ほろ酔い気分でテーブルに突っ伏したあたしの背中をとんとん叩いて、未紗は続ける。
「真優もさ、子供じゃないんだからいつまでも一人妄想倶楽部やってんじゃないわよ。声ぐらいパパッと掛けちゃいなさい、パパッと!」
高校時代からの友達である未紗は、同性のあたしから見ても華やかなイマドキの美人だ。そんな未紗がパパッと声を掛ければ、大抵の男の人はあっさりなびいちゃうかも知れない、けど。
あたしは普通だ。普通って何だと言われたら説明できないくらいの普通っぷり。
あくまでも普通の会社の普通の事務員で、趣味は会社帰りに商店街で寄り道してケーキ屋さんとお花屋さんを覗く事、特技と言えばある事ない事何でもかんでも自由に妄想する事、くらいだ。
そんなあたしが、ひさしぶりに恋をした。恋をしてしまった。
お相手は、我が家の愛犬・鉄と散歩をしている時に見かけた男の人。
趣味なのか仕事なのか、カメラ片手に公園の噴水やら蕾の開きかけた桜の木や、芝生でしゃぼん玉を吹く子供(親御さんの了解を得た上で)を撮影して歩く彼。彼が公園に出没する時間は様々で、夕陽の差すベンチに腰かける老夫婦とにこやかに談笑したり、太陽の真下で目の前に転がってきたサッカーボールを難なく持ち主の元へ蹴って返したりしている。
その姿を見るたびに、あたしの胸の奥で甘酸っぱい恋心が泡ぶくみたいに沸き上がってくる。
「だって…いきなり声掛けたりして気持ち悪いって思われたら嫌だし、彼女いるかも知れないし、もしかしたら彼女どころか結婚してるかも知れないし、はたまた忘れられない他の誰かとの約束であの公園を訪れては一人カメラのファインダーを覗いてるのかも知れないし、」
「だーかーら、その一人妄想倶楽部やめなさいって」
「未紗あああ」
「あのね。その男に彼女がいようが結婚してようが忘れられない人がいようが、真優から声掛けてみない事には始まらないでしょうが!」
生中追加ー、と手を挙げて店員さんに注文しながら、未紗があたしの頬をつねる。
「でもね真優、ひとつだけ言っとくけど」
ずい、と顔を近付けて未紗が眉をしかめる。大きな瞳の眼縁にくっきり引かれたアイライン、くるんと持ち上がった睫毛。やっぱり未紗は綺麗だ。
「声掛けて知り合ってからは慎重にね。逆ナンにほいほい乗っかるような男なら、それはそれで問題児だし」
「もー、あたしは一体どうしたらいいのよおおお」
「大丈夫。軽そうな男だったり感じ悪い男だったりしたら鉄ちゃんに噛み付かせりやいいのよ」
んな適当な、とあたしが言ったところで運ばれてきた中ジョッキをあおって、未紗は「くはーっ」とオッサンみたいに豪快に息を吐いた。美人だとそんな絵面さえ様になる。
「よし、次会った時に声掛け決行って事で! いつ会えるかなんてわかんないんだから、何か進展あったら随時報告するように」
「ズイジホーコク」
「そ。頑張れ乙女!」
「…乙女なんて年じゃないけどね」
項垂れるあたしにレバ刺しとビールを勧めながら、未紗が笑って言った。
「しかし、カメラ片手にあの公園うろつく男ってねぇ…知り合いにいるようないないような。ま、鉄ちゃんがついてるから大丈夫よ。絶対大丈夫。当日は鉄ちゃんとあたしがついてると思ってガツンと行くのよガツンと!」
何を根拠に我が家の愛犬にそこまでの信頼を寄せているのか知らないけれど、確かに鉄(及び未紗)がついてると思えば少しだけ勇気が湧いてくる。
あたしは、よし、と意気込んで、目の前のビールを勢いよく喉に流し込んだ。