ぽた、ぽた、と雫の落ちる音が残響する浴室で、わたしはそっと瞼を閉じた。
擦り硝子の中折れ扉の向こう側、狭いキッチンで先生がお湯を沸かしている。先生のいれる珈琲は夏でも冬でも必ずホットで、丁寧にいれられたそれはとても美味しい。
不意に湯舟の中で飲みたくなって、わたしは擦り硝子の扉を内側から叩いた。
「先生、」
ぼやぼやと湿度の高い声で、わたしは先生を呼ぶ。何ですか、と短く返事をして、先生は擦り硝子の扉を少しだけ開けた。
「珈琲いれてたんですか?」
「ええ」
「わたしも飲みたい」
「それなら早く上がって来なさい」
「じゃなくて、いま、ここで」
はい? と呆れたように聞き返す先生だけれど、それでも厭だとは言わない。決して。くるりと踵を返していなくなると、しばらくして先生はわたしのカップに珈琲をいれて戻ってきた。
「これでいいですか?」
「はい。…あち」
舌が、じんと痺れた。
「佐倉くん、飲み終わったらもう帰りなさい。駅まで送ります」
擦り硝子の扉をぱたんと閉じて、先生は呟いた。先生は、わたしに泊まれとは絶対に言わない。
どんなにわたしがせがんでも、いつだって先生は涼しげに笑ってわたしの我儘を制する。柔らかな言葉で、仕草で、わたしをゆるゆると遠ざけてしまう。決してわたしを先生の内側へは踏み込ませてくれないのだ。
そして、わたしは劣情を持て余す。
「…先生なんて」
本当は嫌い、と、バスタオルで髪を大雑把に拭きながらわたしは呟いた。
何だ、この温度差は。先生の指先や肩が触れただけで、身体じゅう熱を帯びて頭が真っ白に染まってゆくわたしとは真逆に、先生はいつでも海底の泡沫みたいに静かに息を落としてわたしを押し止める。
机に向かって書類だか教科書だかに視線を落としていた先生が、ふっと顔を上げる。わたしはぐしゃぐしゃと髪を掻き撫でた。
「佐倉くん」
先生が、わたしの手からタオルを抜き取る。わたしの背後に佇むと、毛先に滴る雫を丁寧にタオルで押さえながらぽつりと呟いた。
「…わかってないな、君は」
え、とわたしが振り返ろうとした時、先生の唇がわたしの耳に寄り添った。冷たい唇。
「僕は君を此処から帰したくなんかないんですよ、本当はね」
微温い吐息が僅かに流れ込んできて、わたしはくたりと俯いてしまう。狡い、先生は狡い。先生の前のわたしは、もう羽根をもがれて籠に閉じ込められた小鳥より無力だ。
送ります、と言った先生の手の中で、車のキーがカチャリと音を響かせた。
「早く卒業して下さいね、佐倉くん」
籠の中の無力なわたしは、ふわりと微笑む先生から視線を逸らす事しか出来なかった。
-END-
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