知っていた。意気地無しだから知らない振りをしていただけで。知っていたんだよ、疾うの昔から。




「仁子」

 『にこ』と名前を呼ばれて、あたしはふっと瞼を持ち上げた。睡魔は去りやらず、あたしはぱちぱちとまばたきを繰り返して声の主を見つめた。

「…なんだ、いっこちゃんか」
「何だとは何だ。そろそろ支度しないと遅刻するぞ。私の卒業式の日くらいしゃんとしろ、しゃんと。…あと私の事はちゃんと姉と呼べ」
「はぁい」

 あたしはのろまな返事をして、髪をぐしゃぐしゃと掻きながら起き上がった。仁王立ちであたしを見下ろす市子ちゃんは、すでに制服姿だ。
 ぴしりと皺ひとつない襟、袖口。歪む事なく結わえられたタイ。市子ちゃんの着る制服は、市子ちゃんそのものみたいに凛々しい。
 だけど、今日は卒業式だから、市子ちゃんの制服姿も本日で見納め。あたしはほんの少し淋しい気持ちになりながら、寝巻を脱いで制服に着替えた。

「ねえ、いっこちゃん」

 あたしと市子ちゃんはひとつ違いの姉妹だ。顔なんて黙っていれば双子みたいにそっくりなのに、立ち居振舞いも趣味も全然違う。
 …同じなのは、ひとつだけ。

「姉と呼べ」
「今日だね、療養所から総ちゃん帰って来るの」

 あたしの支度を監督するように見つめていた市子ちゃんの肩が、ぴくん、と震えた。

「そう、だな」
「じゃあ、すぐにでも総ちゃんと結納するの? 明日? 明後日?」
「馬鹿な。誰が無職の男と結婚などするものか」

 あたしの結わえたタイは市子ちゃんの気に入らなかったらしい。市子ちゃんのきれいな指先が伸びてきて、あたしのタイは正しく直された。

「でも総ちゃん、嘉島家の跡取り御曹司じゃない。就職なんてあっという間、いっこちゃんも行く行くは社長夫人だよ」
「まったく、仁子はくだらない妄想が得意だな」

 市子ちゃんは呆れたように笑いながら、あたしを鏡台の前に座らせた。ちいさな頃から、あたしの髪を結うのは市子ちゃんの毎朝の日課だ。市子ちゃんは毎朝あたしの髪を梳り、校則どおりにきちんと三つ編みにしてくれる。

「…出来た。今日の在校生代表送辞は仁子がやるんだろう? 楽しみにしておく」
「うん」

 硬い言葉遣いとは裏腹に、市子ちゃんの笑顔は柔らかで優しい。文武両道、眉目秀麗な市子ちゃんに比べて、なんとも出来損ないのあたし。
 そんなあたしにも、総ちゃんはいつだって優しかった。総ちゃん。嘉島総一郎。市子ちゃんのふたつ上で、他の男の子みたいに意地悪しない、穏やかで優しい総ちゃん。
 総ちゃんの病気が発覚して療養所に入るまで、あたしと市子ちゃんと総ちゃんは、きょうだいみたいに一緒に育ってきた。

 でも、あたしは知っていた。市子ちゃんは総ちゃんが好きで、総ちゃんだって市子ちゃんを好きだって事。

 なのにふたりとも牛や亀でも苛立っちゃうくらい鈍いから、それに最初に気付いたのも、市子ちゃんや総ちゃんに発破をかけたのもあたしだった。
 お付き合いするようになってからも、ふたりは周りに隠してるつもりだったんだろうけどバレバレで。総ちゃんが療養所に入る頃には「息子が完治して戻ってきたら市子さんを我が家の嫁に迎えさせて欲しい」なんて嘉島のおじ様おば様がうちへ来て言っちゃったくらいの間柄だ。

 …なーんて、片想いが目の前で砕け散ったあたし、泣けちゃうよね。


「市子、仁子、まだなの?卒業式、遅刻しちゃうわよ」

 痺れを切らしたお母様が階下から呆れ声を上げる。きっと今日は、お気に入りの藤色の訪問着を着こなして、髪だって朝一番で美容院でセットしてきたに違いない。

「今行きます」

 市子ちゃんは言って、あたしを促して階段を降りた。タクシーがもうじき着くから外で待っておいて、とお母様に急かされて、あたしと市子ちゃんは連れ立って玄関から表に出た。

 春の空は柔らかく澄んで何処までも青い。見事な卒業式日和。お隣、嘉島家の庭から枝を伸ばした桜に蕾が結んでいる。その桜の木の下で、見覚えのある後ろ姿がくるりと振り返った。

「やあ仁子ちゃん、市子」
「そ、総ちゃん!」
「…そう、いちろう」

 春風みたいな優しい総ちゃんの声に、あたしと市子ちゃんの声が重なる。

「ただいま。市子、今日卒業式なんだよな? 卒業おめでとう」
「…ありがとう」
「仁子ちゃんは? 元気にしてた?」
「うっ、うん、元気元気! あたし、今日は在校生代表で送辞も読んじゃうんだから!」
「そっか。そりゃあおばさん鼻が高いだろうなぁ。読み間違えないように頑張ってね、仁子ちゃん」

 総ちゃんは、駆け寄ったあたしの頭をポンポンと撫でた。昔と変わらない総ちゃんに、あたしは何も言えずにこくんと頷く。
 何年か振りに会った総ちゃんに、言いたい事はたくさんあった。おかえりなさい、もう身体はいいの、これからどうするの。療養所ではどんなふうに過ごしたの、淋しくなかったの、お友達は出来たの。でも、総ちゃんの変わらない笑顔を見たら何も言えなくなってしまった。あたしは言葉に詰まって市子ちゃんをそっと盗み見た。

「総一郎」

 凛とした横顔。だけど睫毛が濡れているように見えるのは、あたしの気のせいだろうか。

「ん?」

 慈しむような視線を市子ちゃんに向ける総ちゃんを見て、あたしは、自分が此処に居ていいものかと狼狽しながらそっと後退りした。途端、左腕をぎゅっと市子ちゃんに掴まれる。

「いっこちゃん…」

 その時、最後の時が来た、と、あたしは弾かれたように感じた。市子ちゃん、総ちゃん、それからあたし。三人きょうだいで居られるのは、きっと今日で最後。
 だって総ちゃんは帰ってきてしまった。そりゃあ勿論早く帰ってきて欲しかった。あたしだって会いたかったから。でも、でも、帰ってきたら総ちゃんと市子ちゃんは。

 あたしは、決めた。

「総ちゃん」
「何?」
「いっこちゃんを、…姉を、どうか誰より幸せにしてあげて下さい。今まで待たせた分、とびっきり極上に。絶対よ」
「な、ちょ、何を言ってるんだ仁子」

 慌てふためく市子ちゃんを余所に、一瞬きょとんと目を瞠った後、総ちゃんはすぐに優しく笑って頷いた。

「ありがとう」

 ごめんね、と、総ちゃんの囁き声があたしの耳朶を掠めた。総ちゃんは知ってたんだ、あたしが総ちゃんを好きだったって事を。って事は、結局気付いてなかったのは市子ちゃんだけか。なあんだ。

 あたしは泣かなかった。だって、青い空に伸びる桜の枝は、胸に痛いくらい凛と厳かで美しくて、まるで映画のワンシーンみたいだったから。

「総ちゃん、卒業式から帰ったらまたゆっくり話そうね。話したい事たくさんあるんだから! …それじゃあ行ってきます、"お義兄様"」
「え…? ああ、うん。行ってらっしゃい」

 手を振り合ったあたしたちの前に、滑り込むようにしてタクシーが停まった。その艶やかな黒い車体にあたしの顔が映る。泣きたいような笑いたいような、なんだか変な表情だ。

「ねえ、いっこちゃん」

 市子ちゃんに、いつもみたいに「姉と呼べ」と叱られたかった。でも市子ちゃんは、何も言わなかった。ただ頷いて、あたしの背中を押してタクシーに乗り込む。ああ、あたし。あたしってば。

「仁子、…すまない」
「ううん、ごめん、ごめんねいっこちゃん。あたし、あたし…っ、」
「違う。仁子が謝る事じゃない。お前の気持ちは知っていた、なのに、私は意気地無しで」

 あたしの気持ちに気付いてなかったのは市子ちゃんだけ、だなんて。そんなの嘘だった。市子ちゃんは知っていた。知ってたんだね。
 大好きな総ちゃん。大好きな市子ちゃん。あたしは泣いた。さっきまで手を振ってあたしたちを見送っていた総ちゃんは、バックミラーにもう映っていなかった。
 怪訝な顔で助手席に乗り込んだお母様にも、素知らぬ顔で発車させた運転手さんにも構わずにあたしは泣いた。市子ちゃんがあたしの手をぎゅっと握った。わあわあ涙を零して泣くあたしの手を、黙ったまんま、ぎゅうっと、握りしめていた。

-END-

覚醒様に提出
 ┗最後だから



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