平日の22時過ぎ、オレンジ色の柔らかな灯りに包まれた閉店間際の喫茶店『ハルシオン』は、心地よい空調と静かな音楽とで、寒空のもと自転車を漕いでやって来たわたしをいつものように迎えてくれた。
 わたしがマフラーと手袋を外してカウンター奥の席に座るのとほぼ同時に、ケトルが沸騰してしゅんしゅん音を立てる。

「こんばんは。そろそろ閉店時間だと思って来ちゃいました」
「いらっしゃいませ。…なづなさん、今日もお仕事お疲れさまでした」

 出されたお水を一口飲んで息をつくわたしに、『ハルシオン』の店主でありわたしの恋人でもある弦(ゆずる)さんは「今日はオリオン座、きれいに見えました?」と尋ねて喉の奥でくつくつ笑った。前に、わたしが自転車で夜空を見上げながら帰りの坂道を下っていてすっ転んだ事がある、という恥ずかしい話を、弦さんはまだ憶えているらしい。

「…その話、そろそろ忘れて貰えません?」
「いやいや、戒めのためにも何度だって話しますよ。なづなさん、もう自転車で坂道下りながら余所見しちゃダメですよ?」

 戒めのためって言うよりからかってるんでしょう、と若干拗ねながら、フォトアルバムに綴られたメニューを行ったり来たり眺めて、わたしはカフェオレを頼んだ。
 はい、と頷いて瞼を伏せる弦さんと、それからわたし以外に夜更けの『ハルシオン』には誰もいない。窓の外は、零れるようにこまやかな濃紺の夜の気配。わたしは、かちゃかちゃと茶器を扱う弦さんの手元をじっと、刺繍を縫うように丁寧に見つめた。
 弦さんが仕事をしている時の手つきや伏せた瞼、ろうそくの灯りにも似た優しい雰囲気がわたしは本当に好きだ(だからこそ、その弦さんが単なる馴染客だったわたしを好きだと言ってくれたなんて、実は嘘か冗談なんじゃないかと未だに疑ってすらいるくらい!)。
 しばらくそうして過ごした後、…あ、この曲知ってる誰の何て曲だっけ結構古い曲じゃなかったっけ?と思って、わたしははたと顔を上げた。

「弦さん、鼻歌」
「…え?」
「今の曲って何年か前バレーボールの試合でアイドルの子達が『がんばれニッポン!』とか言って歌ってた曲ですよね?」

 なあんだ、そんな歌も知ってるんだ、とわたしが笑うと、弦さんは照れたように首を傾げて作業に戻った。

 最近わたしが気付いた事。

 それは、弦さんが、他のお客さんがいる時、決して今みたいに鼻歌なんて歌わないという事。まして、こんな音符マークが目に見えるみたいに軽やかな曲を、上機嫌に歌うなんて。

「…何ですか? 僕の顔、何かついてます?」

 はいカフェオレ、と、あたたかなカップを差し出しながら弦さんが微笑む。受け取りながら、わたしはあくまで平静を装って口を開いた。

「ところで弦さん。昨夜は結局あの美人なお客さんとどうなったんですか」
「…えーっと?」

 困ったように視線を逸らす弦さんを、わたしはやや睨むように真っ直ぐ見つめた。


 昨夜の『ハルシオン』は珍しく(失敬!)混雑していて、わたしはタイミング悪くいつものカウンター席に座れずにいた。
 と言いつつ、遠目に眺める弦さんもいいもんだな、なんて呑気に構えていたわたしの耳に飛び込んできたのが次の会話だった。

「ねえマスターいいじゃないですか、お店終わってから一杯だけでも! 凄く美味しくてお洒落なショットバー知ってるんです私」
「…いいですね、美味しいお酒」
「でしょう? じゃあ今夜にでも、」
「いやいや。木下さんと一緒にお酒なんて飲んだら恋に落ちちゃうかも知れないじゃないですか。ほら僕、お客様とは恋愛禁止ですから」

 にっこり笑う弦さんと、やだあ、なんて甲高い笑い声を上げるお客さんを背に、わたしはレジにお代をそっと置いて『ハルシオン』を後にした。


「やきもちですか、なづなさん」
「…だってお客さんとは恋愛禁止だって。じゃあお客さんだったわたしは一体何なんだって話ですよ」
「え?」

 わたしの小声のぼやきを怪訝そうに聞き返すと、弦さんは一転してにやりと意地悪な笑みを浮かべて囁いた。

「違いますよ。そりゃ初めはなづなさんだって大切なお客様の一人、でしたけど。…僕はね、なづなさん以外の人とは今後生涯恋愛禁止、なんです」



「じゃあ今夜はわたしの知ってるお店に美味しいカクテル飲みに行きましょう、弦さんの奢りで!」
「お酒よりもっと美味しいもの知ってるんですけどどうですか?」
「え、何ですか? パスタかな鉄板焼かなお寿司かな…あ! お鍋もいいですよね、あったまるし」
「そうですね、あったまるにはちょうどいいかも…ってちょっと鈍すぎませんかなづなさん」

(閉店のため伝票整理をする弦さんと食器の片付けを手伝うなづなさんの会話より抜粋)

-END-

1、2、3。様に提出
 ┗♪/恋愛禁止/ニッポン!
▼title/確かに恋だった



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