神様は、いつだって気まぐれだ。

 何でもないような顔をして(或いはにんまりとほくそ笑みながら!)地上で右往左往する人たちの、運命の糸を操っているに違いない。


「…弦さん、弦さんってば!」

 少しだけ大きくなってしまった声に自分でも驚きながら、わたしはカウンター越しに弦(ゆずる)さんの顔を見つめた。ぼんやりと虚ろだった表情が、ハッと我に返ったようにいつもの表情に戻る。穏やかで柔らかな、此処、カフェ『ハルシオン』のマスターの表情だ。

「どうしたんですか? …もしかして体調、悪いんですか?」

 わたしの問いに、微笑みながら弦さんが答える。

 22時を半ば過ぎた店内は、閉店後の静けさに包まれている。最小限に抑えられた照明の下、わたしは弦さんの入れてくれたカフェオレを飲みながら、レジ閉めにいそしむ弦さんを眺めていたところだった。

「いえいえ、違いますよ。すみません、ボーッとして」
「…今日の弦さん、なんか変です」
「秋が近いから、ですかね。物思ふ秋ってやつです。まだまだ気温は真夏と変わりませんけど」

 そう言うと、弦さんは口端をきゅっと上げて笑う。わたしはその笑顔に、いつだってさざ波みたいにさらさらと心を攫われてしまう。
 物思ふ、だなんて、弦さんは一体何を考えているのだろう。…一体、誰を想っているのだろう。
 胸の奥、わたしの心は泡立つように翻弄されてしまう。

 かれこれ一年以上前、仕事帰りにふらりと立ち寄ったのが此処だった。菫色の夜の気配の中に浮かんだ、暖かな橙色の看板がわたしを手招きしているように見えたのだ。
 そして、丁寧に入れられたカフェオレを一口飲んだ瞬間わたしは恋に落ちた。穏やかな眼差しと静かな声、それから柔らかな仕草でカウンターの向こう側に佇む店主の弦さんに。

 そんな、わたしの一方通行だったはずの恋が成就したのはつい最近。未だに夢か幻なんじゃないかと思うくらい、神様が起こした一時の気まぐれなんじゃないかと思ってしまうくらい、嬉しいと同時に疑問だったりも、する。

 ――こんな素敵な人がどうしてわたしを、とか、弦さんの相手が本当にわたしでいいのかな、…とか。


「なづなさん」

 静かな声で名前を呼ばれて、わたしはふっと顔を上げた。弦さんの、夜みたいに黒く澄んだ瞳と視線が絡まる。

「今度の日曜はお暇ですか」
「え、あっ、はい、土日は基本暇ですからっ」

 唐突な質問に、何故か声が上擦ってしまう。目の前の恋人に向かって「土日は基本暇です」だなんて、なんて悲しい会話。でも『ハルシオン』は定休日が平日で、平日はわたしが仕事なんだから仕方ない(繁忙期を避けて有休を取る事もたまにはあるけれど)。

「じゃあ一緒に出掛けましょう。海でも山でも温泉でも、なづなさんの行きたい場所に」
「あの、でもお店は」
「臨時休業。たまにはいいでしょう? …なづなさん、付き合ってもらえます?」
「勿論!」

 これも、神様の気まぐれ?

「本当はなづなさんを連れて行きたい場所があるんですけどね。それは、もう少し先に取っておきましょうか」
「え? 何処ですか?」
「鎌倉。僕の実家です」

 ――神様!

 泡でも吹きそうに口をパクパクさせるわたしの頭を、するりとカウンターから出て隣に座った弦さんが優しく笑いながら撫でる。

「なんて、ね」

 神様の気まぐれでもいい。だって、神様がわたしの運命の糸を望む人の指先に結んでくれたのはまぎれもない事実。今、好きな人が隣にいて笑ってくれる。それ以上の何を、わたしは求めようというのだろう?

 わたしは深呼吸してひとまず自分を落ち着かせると、カフェオレボウルの底に残った最後のひと雫をこくんと飲み干した。






「あの、鎌倉はもうちょっとわたしが花嫁修行を積んでからという事で」
「僕はすぐにでもなづなさんの花嫁姿が見たいですけど。…あ、僕が花婿じゃ嫌ですか?」
「い、いや、そうじゃなくてですね!」
「はいはい。好きですよ、なづなさん」
「ええええっ」
「何ですか今更」

(悪戯っぽく笑う弦さんと、洗っていたカフェオレボウルを派手に取り落としたなづなさんの会話より抜粋)


-END-

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