坂道を自転車で下る。菫色した夕暮れの冷たい風に、頬を切るように撫でられて、わたしは片方の手で首に巻いたストールに触れた。マフラー、には、まだ早いか。独りごちながら坂を下りきったところで赤信号にぶつかる。
ブレーキを引いて信号待ちをするわたしの視界に、十字路の角、『ハルシオン』の窓から柔らかなオレンジ色の灯りが映り込んで、わたしはやっぱり寄り道をして帰る事に決めたのだった。
「いらっしゃいませ」
軒下に自転車を止めて扉を押すと、軽やかな鐘の音に続いて耳慣れた声がわたしを出迎えた。
とろとろと眠気を誘うあたたかい空調、漂う柔らかな珈琲の薫り、それから、ストールをはずしていつもどおり一番奥のカウンター席に座るわたしに、穏やかに笑って寄越す店主の浦川さん。
「ご注文、お決まりですか」
「ま、まだです」
ささやかな衣擦れの音を立ててギャルソンエプロンを掛け直すと、浦川さんは、ことん、と水の入ったグラスを差し出した。わたし以外の客が誰もいない店内は、ちいさな音さえやけにおおきく残響する。
「仕事帰りですか」
「あ、はい。予定より早く上がれたので…ちょこっと、寄り道してみました」
えっと、カフェオレを、とわたしが小声で付け足すと、浦川さんが囁くように「やっぱりね」と言った。
「何が、やっぱり、なんですか」
「お店に入ってきた時の顔でわかるんです、なづなさんの頼みそうな物」
冷たい水をこくりと喉に流して、わたしはカウンターの向こう側の浦川さんを覗き見た。俯けた顔は前髪で隠れてよく見えない。ただ、静かなBGMを掻き消すように浦川さんが鼻歌を歌い出したのが聞こえて、わたしはつい頬がゆるんでしまう。
壁に貼られた自主制作映画の上映会や写真の個展のフライヤー、マガジンラックに並んだ雑誌、あわく落とされたオレンジ色の照明。
今日仕事でしでかしたミスも先輩から放たれたお叱言も、帰ってから考えなければならないあれこれも、みんな此処の空気に溶けていくみたいだ。
「あの、…う、」
うらかわさん。初老の常連さんが彼をそう呼んでいたのを聞いて以来、店主、じゃなく名前(と言っても名字しか知らないんだけど)で呼び掛けたくて、でも図々しい客だと思われるのが怖くてずっと出来ずにいる。
あと一歩、あと、もうすこしだけ踏み込めたら。それが出来ないまま、わたしは『常連さんのひとり』に甘んじ続けている。
だけど、さっきは、さっきは浦川さんが。
「なづなさん、お待たせしました。カフェオレ、どうぞ」
――ほら、わたしの事、名前で呼んだでしょう?
「いただきます」
あたたかなカフェオレを一口啜って、わたしは伏せていた瞼をふわりと押し上げた。意を決する、というのは、こういう心情の事を言うんだ、なんて冷静に思う自分もいたりして。
「うらかわ、さん」
「浦川弦です」
「へ」
「うらかわ、ゆずる。弦って呼んで貰えませんか?」
レジ横に置いてあった名刺大の『ハルシオン』のフライヤーの裏に「ゆみへんに、玄米の玄で弦、」と歌うように言いながら、浦川さんがさらさらと文字を綴る。
「…でもね、なづなさん。名前なんて誰にでもは教えませんよ?」
じゃあ何故、と呟くわたしに、浦川さんはちいさく笑って「おかわりご馳走しますから、ゆっくりしてって下さいね。できれば閉店時間まで」と片目をつぶった。
「ゆ、弦さん、ところでわたしの名前、いつ教えましたっけ?」
「忘れたんですか? 三度目に此処に来た時に『昔は変わった名前で嫌だったの』って教えてくれたじゃないですか」
「お…憶えてません…」
「酷いですね、僕はすごく嬉しかったのに。いつ『なづなさん』って呼び掛けようかって、今日までずっと我慢してきたんですよ?」
(帰り道、並んで歩く弦さんとなづなさんの会話より抜粋)
-END-
▼ラヴィチピスト!様に提出
┗あと、もうすこし(だけ)、