もうじき夜を迎える海は静かで、潮騒さえも何処か知らない世界の出来事のように遠く聞こえていた。
防波堤から覗き込んだ海面は、晩夏の日射しや陸の喧騒、何もかもを飲み込むように無口に横たわっている。
魚が跳ねるのか、時折、とぷんと小さく涼しげな音が響いた。
「静かだね」
僕の言葉に、野島はただ「うん」とだけ答えて頷いた。相変わらず、掴めば折れてしまいそうに華奢な手足。頬を撫でるように吹く微温い風に、野島の黒髪が揺れる。
「中原君、わたしに何か隠し事してる」
「え?」
ヴァイオレットとネイビーのインクをゆっくりとかき混ぜたような色合いの空に、一番星が煌めく。
「だって中原君、さっきからそわそわしてる。深呼吸ばっかりしてるし」
訝るように野島が僕を覗き込む。
また、とぷん、と魚が跳ねた。
「参ったな。野島には何でも悟られちゃうんだよな。…うん、確かに、隠し事が無いって言ったら嘘になる」
「…そう」
「でも話すから。ちゃんと、今から」
「わかった」
掠れた声で小さく呟いて、野島は儚げに笑って寄越した。ああ、と僕は目眩を起こしそうになって息を呑む。そして、野島が笑うとやっぱり僕は胸が苦しくなるんだな、と、他人事のように考えていた。
僕と野島は高校の同級生だった。僕は教室に馴染み過ぎて溶けた絵の具みたいだったし、野島も、教室の一部(例えば椅子だったり机だったり、掲示板に貼られたプリントだったり)みたいに教室の隅に佇んでいるような生徒だった。
僕は野島が好きで、野島も僕が好きだと言ってくれた。その日から僕達は付き合うようになった。幼いながら丁寧に、そして幼いなりに真剣に。
高校を卒業したばかりの春だった。僕は地元の大学に進学し、野島は高校から駅みっつ分ほど離れた街に就職して一人暮らしを始めていた。
開け放された窓から庭の桜が舞い込んで、彼女の肩に貼り付いていた。円卓に出された紅茶にも、一片、桜の花びらが浮かんでいた。
「野島、また肩に花びら乗っかってる」
「え?」
「最初に話した時もそうだったよね。野島がさ、制服の肩んとこに桜の花びらくっ付けてて」
ああ、あの時は中原君が取ってくれたんだったね、と微笑む野島がどうしようもなく愛おしくて僕は途方に暮れた。だから、僕は腕を伸ばして野島の肩の桜の花びらを指先で摘まんだ。そしてそのまま、野島の頬に触れた。
「…なかはら、くん」
もともと口数の少ない野島の、儚げに笑ったり顔を俯けたり睫毛を伏せたりする仕草からその気持ちを読み取るのが僕は好きだった。今、何を考えてる?今、何を想ってる?
目の縁を紅潮させて僕を見つめる野島にキスをして、僕は、そっと彼女を抱きしめた。
あれから何度、昼を夜を朝を跨いできただろうか。僕達はまだ子供で、未熟で、だから些細な事で擦れ違って、距離を置いた時期もあったけれど。でも今、こうして同じ場所に立っている。
「野島」
指を絡めて繋ぐと、野島が髪を揺らして僕を見上げた。視線がぶつかったのが合図のように、野島が瞼を伏せる。僕はその瞼に唇を寄せる。それから静かに唇を重ねる。…唇が触れる瞬間は、抱きしめる時より深く繋がる時より遥かに、僕の心臓に早鐘を打たせた。
「あのさ、野島。僕達そろそろだと思うん、だ、けど」
まだ唇に残る感触に目眩がしそうになりながら、僕はぼそりと呟いた。
「何、が…?」
「これ」
四角い小箱と畳まれた薄い紙切れを野島の手のひらに載せた。拒絶されるのが怖くて、まるで、押し付けるように慌ただしく。
「そろそろ野島にも『中原』になって貰おうかと思って」
ざざ、と、遠くで響いていたはずの潮騒が、ふいに耳朶を掠めて僕達の隙間を通り抜けた。
「はー、やっと言った!」
「中原君、隠し事ってもしかして」
紙切れを開きながら野島が言う。そうだよ、隠し事してたんじゃなくて、これを渡したくて、でも断られるのが怖くて、だからさっきから落ち着かなかったんだよ、と、僕は照れくささに野島から視線を逸らしたまま答えた。
「ありがとう、…嬉しい」
黒い帳に覆われた夜の海で、野島の柔らかな声が僕の鼓膜を震わせた。その余韻に浸りつつ、繋いだ指を、僕はもう一度ぎゅっと握り直した。
-END-
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