俄雨が通り過ぎた午後。
雨に濡れた世界が、僕にはいつもより少しだけ美しく見えたんだ。
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紫陽花を眺めながら歩く君の後ろ姿を見つけて、僕は小さく心臓が跳ねるのを感じた。つやつやした黒い髪と、掴んだらポキリと折れそうな細っこい手足。
「野島」
僕が自転車を押しながら近付いて声を掛けると、君はハッと驚いたように俯けた頭を持ち上げた。
「ああ、中原君」
「今帰り?」
「委員会が長引いちゃって。中原君は部活帰り?」
「うん」
雨上がりの空をふと見上げたかと思うと、君は、また顔を下に向けて口を噤んだ。水たまりで、靴底に当たった水が弾ける。
「図書委員だっけ、野島」
「うん」
「じゃあ、本が好きなんだ」
「…まあ、ね」
そんなの、聞くまでもない事なんだけど。
だって僕は、君が昼休み、教室の喧騒から逃れるようにして裏庭で本を読んでる事も、放課後、司書の先生を手伝って書架整理をしてる事も知ってるんだから(ついでに、教室ではいつも無口に俯いている事も、僕以外の男子とは話そうとしない事も。これは僕的には嬉しい事なんだけど)。
初めて僕が君と言葉を交わしたのは、まだ春浅い入学して間もない頃。よく憶えてる。朝の教室、隣の席で、桜の花びらを制服の肩にくっ付けていた君に僕が声を掛けたのが最初だった。
「えーと…野島さん、だよね? 肩、桜が付いてる」
僕の言葉に、びくりと肩を震わせながら君は顔を上げた。まるで誰かに声を掛けられるのを恐れてるみたいに。
「ビックリした? ごめん、いきなり声掛けて。…はい、桜、取れました」
「あ、う、うん、ありがと…」
僕が手を伸ばして花びらを払うと、君は頬を真っ赤にしながら笑った。
それが僕達のはじまり。
季節が巡るうち、君が中学時代クラスに馴染めず、それで家から遠いこの高校に入った事をなんとなく耳にして。それから、何故だろう、君から目が逸らせなくなって。
同情? 好意? それとも憐れみ? …なんて自問自答を繰り返しつつ、僕は気付いたらどうしようもなく君を好きになっていた。
「野島」
「なに…?」
覗き込むようにして見つめると、君はあの時みたいに頬を真っ赤に染めて僕を見つめ返した。
「誰が好きか当てようか」
「へ!?」
「作家。野島、本好きなんだろ?」
「え、そっか、そうだね」
ギクシャクと頷く君を見ると、壊れるくらい抱きしめてしまいたくなる。もしかして僕を好きなんじゃないかって、僕の気持ちなんて疾うに伝わってるんじゃないかって、勘違いしてしまいそうになる。
ねえ野島、僕は君が好きだよ。理由なんて解らない。頬にかかる睫毛の影も、本の頁を軽やかに捲る指先も、あの時、僕にだけくれた儚げな笑顔も、みんなみんな好きなんだ。…君も、僕が好きだろう?
「じゃあ、宮沢賢治」
「うん、好き」
「金子みすゞ」
「ふふ、確かに好き」
「中原中也」
「好き、かな?」
「…中原拓真」
「!」
僕は自転車ごと立ち止まって、君の目をじっと凝視した。頷け、と早鐘が打つように鼓動を逸らせながら祈る。
「だ、だって、中原君」
「何?」
「中原君は作家じゃない…よ…?」
僕は、がしゃんと派手な音を立てて自転車が倒れるのもお構い無しに、夏服の君をぎゅっと抱きしめた。
「なっ中原く」
「そりゃあ僕は、小説なんか書けないけど」
蕩けるように甘い君の髪の匂いに、僕は頭がおかしくなりそうになりながら小さく呟いた。
「野島が好きだよ。なあ、いい加減気付いてくれよ」
雨上がりの紫陽花が見ていたのは
僕達の不器用な恋愛模様でした
僕は、僕の腕の中で固まった君に、「ていうか野島もさ、いい加減僕が好きだって認めろよ」とだめ押ししてやった。
-END-
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