帰り道、ふいに鼻先をアスファルトの湿る匂いが横切って、俺は曇った空を見上げた。ぽつり、落ちてきた雨粒に睫毛が震える。やがてそれらが、頬に髪に。
 急いで帰ろう、と思ったのも束の間、雨は世界を憎むかのように、激しく地上に叩きつけはじめた。打たれる頬が痛いくらいの大粒の雨だ。もちろん傘なんて持ち歩いていない。

 なす術もなく軒下で雨宿りしていると、目の前をふらふらと歩く人影が目に止まった。煙るような雨の中、夜のように黒い髪も、蝋のように白い肌も、何もかもがハチャメチャにびしょ濡れだ。
 気付くと俺は、その腕を引ったくるように掴んで軒下に引き寄せていた。ぽきんと折れてしまいそうに細い、華奢な女の人。夢から醒めた子どものように目を見開いて俺を見つめている。
 年は同じくらいか、もしかしたら少し上か。つーかすんごい美人だな、なんて場違いな事を一瞬だけ考えたけど、ぶつかった視線の先の彼女の目が禍々しいくらい赤く充血していて――つまり彼女が泣いていた事が一目瞭然で――俺はひどく困惑した。後には引けないまま、おずおずと声をかけてみる。

「あの…、あんまり濡れると、その、風邪、ひきますよ?」

 彼女は、ぼんやりとまばたきを繰り返した。頭から爪先まで、どこぞで滝修行でもしてきたのかと問いたいくらいずぶ濡れだ。目の縁から零れる水滴は雨だろうか、それとも涙なのだろうか。
 俺は咄嗟に、自分の着ていたジャケットを彼女に押し付けた。

「…そちらこそ、こんな事したら」
「大丈夫大丈夫。ちょっと濡れたくらいで倒れるほどひ弱じゃないですってば。あ、ゆとり世代で頭はひ弱だって言われるけど」

 一瞬きょとんとした表情を見せた後、彼女は雨滴を伝わせる髪を指先でぬぐいながらポツリと言った。

「…誰がそんな事」
「職場の上司ですよ。ま、当たってるから文句言えないかな」

 ほんのり自嘲気味に笑ってみせると、彼女は無表情のまま呟いた。

「頭がひ弱な人は、こんな雨で他人の心配までしたりしない」
「そう? そんなふうに言われたらますます放っとけないなあ。えーと、」
「川瀬真白」
「…ましろ、さん」
「真実の真に白黒の白」
「おー、カッコいい名前だなぁ。真白さん、か。なんか見た目のまんまで似合ってる」

 俺の言葉にふいっと目を逸らして口を噤んだかと思うと、また向き直って「あなたは?」と小首を傾げる。

「佐久間。佐久間敬吾です。んで、えーと、真白さん、俺そこのコンビニで傘買ってくるからちょっと待っててくれますか。…逃げちゃダメですよ?」

 言い置くと、俺はダッシュで斜め向かいのコンビニに駆け込んだ。が、この雨で同じ考えの人は多かったらしく、安物のビニール傘はすでに売り切れだった。

「ごめん真白さん、傘売り切れてて、って、うわあ!?」

 戻るや否や、彼女は俺のジャケットを傘代わりに頭にかぶると、俺もその下に巻き込んでどしゃ降りの中を走りはじめた。


「こういう場合、」

 しばらく走って辿り着いたのは、どうやら彼女のマンションの前らしかった。エントランスで何やら悶々と考え込んでようやくそう発した彼女に俺は言った。

「いやいやいや、さすがに上がり込んでお茶だのお風呂だのせびりませんって。帰ります。…あ、でも」
「何」
「傘、借りていいですか?」

 こくんと頷き、一旦部屋へ上がった彼女は傘を手にして戻ってきた。相変わらず濡れ鼠で、髪や顎からポタポタ雫が零れ落ちている。放っておけない、というよりも、むしろ抱きしめたい、という衝動を抑えて俺は尋ねた。

「ねえ真白さん。この傘、いつか返しに来てもいいですか?」

 要らないから持ってって、と言われるのが怖かった。つまり、このまま会えなくなるのが嫌だったのだ。
 まるで恋愛初期の症状だ。…いや、うん、そうだ、これは間違いなく一目惚れってやつなんだろう。

「……佐久間」
「お、名字呼び捨てキタ」
「茶化さない」
「すみません」
「傘、返しに来た時はお茶くらい出すから。あと、これもクリーニングに出しとく」

 じゃあね、とそっけなく言うと、雨に濡れてくたくたになった俺のジャケットを持ったまま彼女はエレベータに乗り込んだ。俺は、ただそれを見送るしか出来なかった。







 傘は明らかな女物で、和らいできた雨脚に差して歩くのは若干恥ずかしかった。が、どうしようもなく高揚する気持ちを抑えきれず、俺は雨の中を歌いながら歩いたのだった。

-END-

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 ▼title/確かに恋だった



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