昨日の夜半に降りそぼった雨で、この夏の名残が去っていったかのようだ。夕暮れせまる公園のベンチで、ずいぶん涼しくなった風に吹かれながら、僕は手にした本に読むともなしに視線を落としていた。
 きぃ、とブランコの軋む音がして、僕はちらりと視線を上げた。ちいさな子どもが腰かけているブランコを想像していた僕は、そこにいたのが子どもなんかじゃなかった事に驚き、ついつい凝視してしまった。
 秋の始まりのこの時期には若干肌寒そうな風合いのワンピース、その裾がひらひらと頼りなくひるがえるのを気に掛ける様子もなく、彼女はブランコを力強く漕ぎはじめる。

「あーしたてんきになーあれっ」

 不意に叫ぶと、彼女は突っ掛けていたミュールの片方を、ぽんと宙に蹴り投げた。おお、思いの外飛距離が出た。と思ったら、なんとそのミュールが僕の側近くに落ちてきたではないか。僕は本を読む格好に戻るべきか、ミュールを拾い上げてこの行動の意味を彼女に問うべきか悩んだ。ほんの一瞬。

「晴れ、だなぁ」

 僕は呟くと、今にも壊れそうに華奢な(こんな細っこい作りで人体を支えている事が不思議だ)ミュールを彼女に差し出した。照れくさそうに駆け寄ってきた彼女と目が合う。途端、彼女が見知らぬ人物ではなかった事に気付いて僕は瞠目した。

「…吉野さん?」
「え、あ、うわ、越智君っ!?」

 僕の問いに、真っ赤になって動揺しながら彼女が答える。高校時代の同級生の吉野さんだった。吉野さんは半ば引ったくるようにしてミュールを掴み取ると、ペコペコと頭を下げながら謝った。

「ごめんね、ホントこんなお恥ずかしいところをお見せしちゃって。いやはやまさか越智君がこんな所にいるなんて」
「吉野さんこそ。…あ、『吉野』さんじゃないんだったっけ、もう」

 たまに高校時代の友達と飲むと、話題は同級生たちの噂話になる事が多い。
「タナカは去年起業してエラい羽振りがいいらしい」とか「ササキは卒業してすぐデキ婚して今じゃ三児のパパなんだってさ」とか。そんな他愛もない雑談に、吉野さんの名前がふわりと上がった事があったのだ。

「んー、でもまた『吉野』に戻っちゃったんだよね。それで実家に帰ってきたんだ。いわゆる出戻り娘ってヤツです」

 頭を掻いて、吉野さんが微かに笑う。僕はこくんと息を飲んだ。

「それって」
「…そ。離婚したの。旦那にね、…違った、元旦那にね、ある日突然『本気で好きな人が出来たんだ』なんて言われちゃって。やたら飲み会とか出張とか多かったし、前から怪しいとは思ってたんだけど。…でも、わたし結構頑張っていい奥さんやってたつもりなんだけどなぁ」

 無理やり貼り付けたような彼女の笑みに、「何で離婚なんか?」と喉元までせりあがってきた愚問をどうにかこうにか嚥下して、僕は吉野さんの頭をぽんぽんと撫でた。

「うん、頑張ってたの、知ってる」
「知らないくせに」
「知ってるよ」
「…、……っ」
「確かに吉野さんが高校卒業してからどうしてたとか結婚してからどんな暮らしをしてたとか、そんなのは一切知らないけど。でも、いろんな事、頑張ってたんだろ? それだけは、僕もわかる…気がする。うん。お疲れさま、でした」

 言葉を区切りながら、出来るだけ慎重に僕は言った。突然、偶然に再会しただけの僕が彼女に出来る事なんてこれくらいしかない。

「何はともあれ、元気で生きてるんだからそれでいいじゃん」
「…越智君、お爺ちゃんみたい」
「よく言われるよ。…でもホラ吉野さん、さっきの靴飛ばしも『明日は晴れ』だったしさ」

 僕は笑って、自分が巻いていたストールを彼女にぐるぐると巻きつけた。秋の日は釣瓶落とし、夜はすぐそこだ。冷たい風が、僕らのあいだをするりと吹き抜けてゆく。






「ばいばい、越智君」
「またね」

 手を振る吉野さんを見送ると、ほんのり冷える襟元をさすって、僕は家路を急いだ。帰ったら久々に卒業アルバムでも見てみようかな、なんて、胸の奥にほっこり明かりが灯ったような気持ちを抱きながら。

-END-

無呼吸ワルツ様に提出
 ┗僕は知ってる。



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