ウェイターに恭しく予約席に通された奈々は、椅子に腰かけるとちらりと腕時計を見やった。約束の時間にはまだ早いようだ。
 奈々は今日何度目かの大きな溜め息を零すと、数日前に友人と交わした会話を思い返しながら、窓の向こうの暮れなずむ景色をぼんやりと眺めた。

* *

「ねえ奈々。そんっなに渋るって事は、本当は付き合ってる人がいるとか? もしくは好きな人でもいるの?」

 不意に友人に真顔で尋ねられ、奈々はどきんと心臓が跳ね上がるのを感じた。咄嗟にある人影が奈々の脳裏に浮かんだが、「もう3ヶ月近く会っていないし」「まず第一に私たちそういう間柄じゃないし!」と、その影を頭から振り払うようにして奈々は答えた。

「いいえ、そういう訳じゃなくて…」

 友人曰く、どうしても奈々を紹介して欲しいと熱望している知人男性がいるのだそうだ(友人が大学の卒業アルバムを見せたとか、卒業後に一緒に旅行に行った時の写真を見せたとか、とにかくそんな事がきっかけで彼は奈々を見初めたらしい)。

「それなら問題無し。ひとまず私も入れて三人で食事に行くだけなら別にいいでしょ? その後どうするかは奈々の気持ち次第って事で」

 ね、ね、彼も悪い人じゃないのは確かだからお願いっ! と拝むように合掌までされて、奈々は仕方なく頷いた。

「……わかった」

 そんな奈々に、友人は咲き零れんばかりに顔を綻ばせ、約束の日時をテキパキと取り決めたのだった。

* *

 斯くして奈々は、きらびやかな夜景を見渡すレストランで、つい今しがた友人の紹介により見知ったばかりの男性と二人で――当の友人は奈々に彼を紹介した後さっさと撤収してしまったのだ――食事をする事になったのである。

 相手の話に上の空で相槌を打ちつつ、今回の件を沙織に話した時の事を思い返す。
 初め沙織は「お姉ちゃん本気!?」と何故か若干憤慨気味だったのだが、しばらく思案顔で黙りこくった後「こうなったら私にも考えがあります」と言い放って自室に引き上げていってしまった。


「ホント可笑しな話でしょう、ねえ、棚旗さん?」
「…本当に、あの子ったら何を考えてるのかしら…」

 思わずポツリと漏らした奈々に、相手は訝しげな視線を寄越した。

「棚旗さん?」
「えっ、あ、その…何でもないんです。失礼しました。お話、続けて下さい」

 横浜港をクルージングするという客船への搭乗を促すアナウンスが、何処か遠い世界の出来事のように響いている。
 そういえば食事が終わったらそのまま船に乗り込んでクルージング出来るとか何とか言ってたっけ…と、さっきまで隣に座っていた友人の言葉を思い起こしていた奈々に、身を乗り出すようにして相手の男性が言い募った。

「いえ、さっきの話はもういいんです。棚旗さん、率直に言いますが、僕は出会ったきっかけが何であれとにかくこれを機に真剣にあなたと、」

 突然、奈々の腕が思いがけず強い力で掴まれた。

「痛っ、……え!?」

 驚いて顔を上げた奈々の視界に、ボサボサの黒髪と鼻梁の通った横顔が映る。他の誰あろう桑原崇その人だった。奈々と同じく絶句する相手に、崇は淡々とした口調で言った。

「失敬。彼女には先約がありまして」
「な…っ、なんだ君は」
「名乗る程の者ではありません。奈々くん、行くよ」
「え、ちょ、タタ」

 ルさん!? と最後まで奈々が言い終わらないうちに、奈々は腕を引かれたまま店を抜け、停めてあったタクシーに乗り込む事になったのだった。

* *

 海を見下ろす高台に位置する公園でタクシーを降りたのだが、それから、崇も奈々もお互いに一言も発する事なくひたすら沈黙を守り通していた。

「…夜景、綺麗ですね」

 その緘黙に耐えかねて、奈々はそっと息を吐き出すように口を開いた。

 例え奈々が心から望んだものではなかったとは言え、友人が用意した席をあんな形で中座してしまうなんて――相手にどう謝罪しようか、友人にも何と説明しようか。それを考えると気が遠くなりそうになる。
 だが、それを差し置いても何よりも、本当は崇を問い質したくて仕方ない自分がいるのが事実だ。

 何故あんな真似を?
 何のために?
 どういう経緯でこんな展開に?
 …そもそも、私はあなたにとってどういう存在なんですか?

 煩悶する奈々を忖度する様子もなく、崇はちらりとその夜景に一瞥をくれて言った。

「綺麗な夜景を眺めるなら、あのまま彼と横浜港をクルージングしておいた方が良かったかな」
「そういう問題じゃありません!」

 ついムキになってしまった奈々に、崇はようやく向き直って正面から見据えた(見下ろした、というのが正しいかもしれない)。

「今日の話は沙織くんから聞かされた。…最初は、君が望むなら相手が何処の誰であろうと、食事でも何でも君の自由にすればいいと思ったんだ。俺に、君の行動を制限する理由はないからね」
「……」

 じわりと肌を這うような、湿った風が辺りをそよがせる。不快指数は何度くらいだろう、などとおおよそ関係のない事を考えながら、奈々は崇が言葉を継ぐのを待った。

「でも、理由はなくても必要はあった、と、今は思う」
「…それは?」
「勿論君が自立したひとりの女性であって『もの』などではない事も、故に誰かに所有されるべきでない事も承知の上で言うが――」
「タタルさん、一体何を」

 混乱する奈々をふわりと抱きしめて、崇が呟いた。


「君が、あのまま他人のものにならなくて良かった」


 聞きたかった事の半分も聞けていないのに、その言葉だけで奈々は嬉しくてきゅうっと身を縮めてしまう。

「タタルさん…」

 更に強く抱きしめられた時、奈々の頭の中でカチリと何かが綺麗に嵌まったような気がした。

「私たち、素直じゃないのはお互い様かもしれませんね」
「え?」

 奈々はそっと崇から身を離すと、崇の手を取ってにっこりと微笑んだ。

「自分の気持ちに正直になるのが一番だって、私ようやく気付いたんです」
「つまり?」
「だからタタルさん、誰にも追い付かれないくらいもっと遠くまで私を連れて行って下さい。タタルさんと一緒なら、どんなに遠くまででも私平気です。…タタルさんが悪いんですよ? あんな風に私を誘拐したりするから」

 一瞬きょとんと目を見開いた崇だったが、ふっと表情を和らげると奈々の手を握り返した。

「少なくとも『伊勢物語』六段《芥川》のようにはならないよう、努力する」
「…だからって今夜の事は『伊勢にしよう』というのは無しですよ?」
「当たり前だろう。そのつもりなら、最初からあんな無茶はしない」

 困ったような笑みを漏らす崇に胸の奥が痛むほど満たされつつ、奈々は鞄の中の携帯電話の電源をそっと切ると――普段の自分らしからぬ判断だとも思ったが、今この場で自ら友人に一報を入れるのは野暮ったい気がしたのだ――、崇と並んで、月と星が静かに見下ろす石畳を歩きだしたのだった。

-END-

▼Special Thanks…彦多様
 「奈々ちゃんがお見合いをする事になり、その席からタタルさんが奈々ちゃんを奪って逃げる」という原案を、彦多様から貸して頂きました! 彦多様、私なんぞが書くのを快諾して下さってありがとうございました〜(*´∀`) で、でもこんなんで大丈夫でしたかね…? なんかお見合いって設定も消えちゃってるし(あわわ)
 ちなみにこの原案の彦多様的BGMはスピッツの可愛い名曲「スパイダー」。曲の中では男の子が頑張ってるのに、この話では最終的に奈々ちゃんが頑張っちゃってますね…。あああ、これぞタタ奈々クオリティ…!(苦笑)
>>2011.08.02



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