迷走ブルーバード続編)

「亮」
「え、何? どうしたんだよこんなトコ突っ立って」

 仕事から帰ってまだ靴すら脱いでいない俺を玄関先で真っ直ぐに見つめて、彼女が絞り出すように告げた。


「……子ども、できた」


 その時の俺は、一体どんな顔をしていたのだろう。彼女から放たれた言葉を脳内で理解して、それから、…それから?

 しばしの沈黙。ようやく、彼女がゆっくりと口を開いた。

「嫌、だった…?」

 彼女が不安げに顔を曇らせながらそう尋ねた。こんな事を言わせるなんて、俺は本気で大馬鹿者だ。

「嫌な訳ない、ごめん、いや違う、なんか昂っちゃって言葉にならないけど、すげえ嬉しい!」
「嬉しい…?」
「当然!」

 俺はぎゅうっと彼女を抱きしめ、そしてゆっくりと離した。お腹の辺りを見つめる。まだぺたんこのこのお腹に、自分と彼女の子どもがいるだなんて。
 男の子だろうか、女の子だろうか。男の子だったらやっぱりキャッチボールなんかすべきなんだろうか。女の子だったら「パパとけっこんする!」とか言ってくれるんだろうか。

 …いや待て結婚って!

「あのさ比奈、」
「ねえ亮、あたし本当に生んでいいの?」

 俺の言葉を制するように、彼女は畳み掛けた。

「当たり前だろ。何で? 不安? 具合悪い? …あ、つわりってやつ?」
「あたし、病院行ってハッキリ判ってから、亮がダメって言ったらどうしようってそればっかり考えてて」

 …愛されなかった子ども。彼女が自分自身を振り返る時、必ず使う言葉だ。だがそんな彼女を俺が救ったとか癒したとか、そういう美しい話ではない。

 だって、俺は初め彼女とは近付かずにいようと思っていたのだから。

 退屈で安全な教室で、同級生や教師を威嚇し嘲笑う為だけに鎮座する獣。それが、彼女に対する俺の第一印象だ(金色の髪とピアスだらけの耳とガリガリに痩せこけて痣だらけの手足がそれを手伝った)。
 触らぬ神に祟りなし。誰も彼女に近付こうとはしなかった。それでも彼女にまつわる悪い噂だけは瞬く間に増殖してゆく(他人を射るような眼差しとこれでもかと着崩した制服と校門まで入れ代わり立ち代わり彼女を迎えに来る遊び慣れた風情の男たちがそれを手伝った)。

 俺は、そんな彼女を遠くから見つめるだけだった。

 そんな、ある日。

「あたし、家出しようと思ってんの。誰にも捕まえられないくらい遠くまで。…一緒に、行かない?」

 唐突に俺のカーディガンの背中を引っ張りながら、彼女がニヤリと笑った。その仕草は、ごく普通の、向こう見ずで考え無しの女子高生にしか見えなかった。

「いいよ、行こう」

 何故すんなり答えてしまったのかはわからない。が、とにかく俺と彼女は南行きの電車に乗り込んだ。

 これが、俺と彼女――綾瀬比奈子――の始まりだった。



「なあ比奈」
「ん?」
「具合、悪くない?」

 ソファに並んで座ると、俺はどうしても比奈子のお腹の辺りに視線をうろつかせてしまいながら尋ねた。比奈子は、ぽすんと俺の肩に頭を乗せて言う。

「今は平気。あたしの場合、お腹減ると吐きたくなるタイプみたい。常に何か胃に入れとかないと気持ち悪くなっちゃうんだよね。…って言っても何でもは食べたくないし参っちゃうよ。明日は仕事、ちゃんと行けるかなぁ…」

 何だそれは。なんというややこしい事態。でもそれが、比奈子の中に俺たちの子どもが宿ったという事なのか、と妙に感慨深くもあったりして。俺は居ても立ってもいられず立ち上がった。

「とりあえず何か買ってこようか? 何がいい? 甘いモン? 塩っぽいモン? 飲み物は?」
「もー、心配性だな亮は。大丈夫。それよりね、気分悪いのとどうやって赤ちゃんのこと亮に報告しようかってので頭がいっぱいだったから晩ごはん作れなかったの。ごめんね」
「バカ謝るなよ、お前は無理して仕事も家事もする必要ないんだってば」
「おっ? よしよし、いい父親になれるぞ、桐野亮平!」

 比奈子が言って、俺は再び頭が沸騰しそうになった。桐野亮平。俺の名前だ。そして比奈子は、綾瀬比奈子。まだ桐野比奈子ではなく、綾瀬比奈子のまんまなのだ。

「違う、比奈、いい父親になる前にいい夫になりたいの俺は! だから」
「え、ちょっと」

 俺は比奈子の前で両膝をついた。戸惑った表情の比奈子の手を握りしめる。

「えー、…綾瀬比奈子さん、俺と、結婚してください」

 ああ、本当に、俺はなんて間抜けなんだろう。結婚してから子どもを作るべきだ、という親世代の風潮はともかくとして、俺はいつだって比奈子と結婚して家族になるつもりはあったのに。
 確かに比奈子は昔から、『婚姻』という制度にも『家族』という枠組みにも興味はない(というかそれらを背負う自信がない)、なんて言っていたけれど。
 ――その言葉に甘えて、比奈子の抱えるそれごと全部を引き受ける決心もつかないまま流されてきたのは俺だ。初めて二人で電車に乗り込んだあの日から、もう10年も経つというのに。

「遅くなってごめん。俺、なんか頭テンパりすぎて」
「見てればわかる」
「え」
「亮らしいよ」
「…で、返事は?」

 俺は、比奈子の色素の薄い瞳を見つめた。

 この瞳がこれまで何を見てきたか、俺は10年以上前の事は知らない。だから、出会った当初、この瞳が相手を睨み付ける時以外は哀しげに潤んでいた理由も、未だに時々ぼんやりと遠くをさまよう理由も俺にはわからない。
 比奈子が話したいと思わない限り、無理に記憶を引っ張り出したくないと思うからだ。俺にだって、誰にも、比奈子にすら話したくない過去はある。それでいいと思う。

「…綾瀬?」

 つい、学生の頃のように名字で呼んでしまった。

 比奈子とふたり、家出、とやらを決行した日が脳裏に甦る。

 初夏の太陽。辿り着いた無人駅。あまりの暑さに腕まくりして炭酸水を飲んでいた比奈子、カーディガンを頑なに羽織ったままの俺。
 まるで世界に俺と比奈子しかいないみたいに静かで閉じられた空間。比奈子とはあの日初めてまともに言葉を交わしたのに、並んで座っているだけでずっと昔から一緒にいたような不思議な感覚に陥った。そのせいか、電車に揺られている間じゅう、俺は比奈子と出会うべくして出会ったんだと、やけに確信めいた気持ちでいられた。

 あの日の光景は、今も、こんなふうに鮮烈に思い浮かべる事が出来るのだ。

「桐野」
「ん」

 俺につられたのか、比奈子も俺を学生の時のように呼んだ。そして照れ隠しのような口調で言う。

「キスしてくれたら、さっきのプロポーズの返事する」
「何だよそれ」
「いいから」

 比奈子の両手が、俺の頬に触れた。あたたかな指先。

「これで断られたら俺すんごいヘコむんだけど。そん時はどーしてくれんの」
「つべこべ言わない」

 くすくすと笑みを零す比奈子の唇に、俺は、そっと自分のそれを重ねた。頭の何処かで、これからこなさなくてはいけないであろう諸々の出来事――例えば親への報告だとか結婚指輪の購入だとか、出産に向けて知識を蓄えなければ、とか――を思い浮かべながら。

-END-

▼あとがき(2011.10.21)
「迷走ブルーバード」の綾瀬と桐野のその後を書きたかったんです。ふたりにはどうかどうか幸せになって欲しい親心。
 でも、此処に至るまでのふたりも書きたい訳です。桐野の事は全然書けてないし、「迷走」でふたりして家出したはいいけどそれからどうしたのかとか深く考えてないのでね…(チーン)
 秋も深まり、柔らかな雨が地面を濡らし、部屋にはちいさな音で好きな曲が流れていて、私は幸せです。はい。




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