不運の先に



狛(→)←苗 幼馴染パロ





 途中にあった花畑で少年は足を止めると、その場で一輪を摘み取る。
 薄紫色の花は気品溢れる上品さがあり、淡い色が少年の真っ白な髪によく似合うと苗木は思った。
 そして、また一つ。
 少年が徐ろに花を摘み取る。
 その動作を幾度か繰り返し、器用にもそれらを一つの輪っかにすると、少年はそれを苗木の頭にふわりと被せた。
 被せられた時にほのかに香った花の匂いが、苗木の胸一杯に広がる。
 苗木もお返しにと、先程少年がしたように一輪摘み取っては試みるも、思うようにはいかない。
 四苦八苦する苗木の様子を少年は静かに眺めていた。
 苗木の足元にいくらかの花が散り、ちょっとした花畑が出来上がった頃、観念したのか、苗木は小さな花の指輪を少年に差し出した。
 少し恥ずかしそうに指輪を差し出す苗木に、少年は口元を少しだけ緩めると、少年もすぐ側から一輪を摘み取り、お揃いとばかりに指輪を作る。
「苗木クン、ボクとずっと一緒にいてね…」
「うん、もちろんだよ!」
 泣いているのだろうか、少し掠れた声で告げられた言葉に苗木は笑顔で応える。
  結婚式に新郎新婦が指輪の交換をするように二人は誓いを交わし、本物ではないが、花でこしらえた指輪を交換する。
 これから何があってもずっと一緒にいられますように。
 それは、子どもの頃の稚い約束―…。

      

「うそつき……」
 ポツリと零された言葉は誰にも聞かれることなく塵に紛れて消える。
 苗木は窓の外に立つ青年に先程から視線を注いでいた。
 眼下に佇む彼は、その真っ白な髪に太陽の光をきらきらと反射させ、まるで朝露のように輝いて見えた。
 思わず感嘆の溜め息を吐きたくなるようなその美しさは、昔から何一つ色褪せることはない。
 昔と変わった所といえば、自分と彼の距離くらいだろうか。


 苗木が少年と出会ったのは、二人がまだ幼稚園に通っているかどうかというくらい昔のことだった。
 母親に連れて行かれた公園で、一人で砂遊びをしている少年に苗木が話し掛けたのがきっかけだった。
 少年の真っ白な髪とそれと同等、もしくはそれ以上に白く透き通った肌が幼い苗木には素直に綺麗だと思えた。
 まるで決められた義務のように無表情で淡々と砂遊びをする様も、周りの子ども達と一線を画していて苗木には素晴らしく思われた。
「ねぇ、きみのなまえはなんていうの?」
「………」
 舞台でスポットライトを浴びたかのように苗木の目には少年だけが移り、誘われるまま少年の元へと近付いていた。
 聞こえているだろうに、こちらに全く興味を示さず作業を続ける少年に、苗木は諦めず声を掛ける。
「ぼくはなえぎまことっていうんだ。ねぇ、きみのなまえをおしえてよ」
 苗木には目もくれず黙々と砂をかき集める少年に焦れ、苗木は子ども特有のそれで少年が答えてくれるまで何度も繰り返し、騒ぎ立てた。
「………こまえだ、なぎと」
 答えるまで苗木が騒ぎ続けることを疎んでか、少年も諦めて苗木の問いに答える。
 見た目の印象通り、ツンと澄ました声で無愛想に応じる少年に、苗木は少年の名前を知ることが出来たのがただ嬉しくて、少年の嫌そうな態度などまるで気に掛けなかった。
「こまえだくんっていうんだね!! きれいななまえだね。ねぇ、ぼくもいっしょにあそんでいい? 」
 苗木の無邪気な誘いにはっきりと否を言うことも出来ず、狛枝はただ黙って砂をかき集めては、砂の城にペタペタと補強をするだけだった。
 苗木はそれを了承と受け取り、少年の向かいに腰掛けるとニコニコと砂遊びを始めた。
 先程しつこく聞いてきた時とは打って変わって、静かに砂遊びを始めた二人の間には周りの子ども達の喧騒だけが流れた。

 どれだけ経ったか、歪な砂の城がそれなりに見栄えするようになった頃、苗木が母に呼ばれた。
 そこで二人はようやく周りが赤く染まり、いつの間にか喧騒が薄れたことを認識した。
「じゃあね、こまえだくん。またあそんでね!! 」
 笑顔で別れを告げる苗木に、少年は表情をぴくりとも動かさず沈黙を貫いた。
 けれど苗木は否定されないことが嬉しくて、再び笑って手を振ると、母に手を引かれて公園を出て行った。
 苗木が公園を出て行くのを無感情に眺め、苗木が見えなくなったのを確認すると、少年は再び砂場へと足を向けた。
 歪な砂の城はまだほんのりと暖かい。
 少年は再び砂の城に砂を盛り付け始めるが、少しと経たずに誰に言われるとでもなく、公園を一人去って行った。
 それからというもの、苗木は少年を見つける度に声を掛け、二人は子どもらしい会話を交わすこともなく、ひたすら黙々と砂遊びをした。
 少年も口には出さなかったが、いつしか苗木のことを待ち侘びるようになっていた。
 二人の間に言葉はなかったが、確かにそこには友情が芽生えていた。

     

 あの時、彼と二人で砂をいじっていた頃は、太陽に照らされた砂が暖かかったが、今苗木がいるこの教室はひどく冷たい。
 それだけに、あの頃と変わらず陽だまりの中を歩いている彼が苗木には眩しく、同時にとても遠くに感じられた。
 窓の外から見える世界はまるでそこだけが切り離されたかのようで、それは自分と彼の関係を如実に表しているかのようだ。
 そして、また一つ。
 言葉にならず消えた溜め息が空気中へと吐き出された。

「何見てるんだ?あ、狛枝じゃないか。あいつとはあんまり関わらない方がいいぜ」
 急に後ろから覗き込んで来たクラスメイトに苗木は少しだけ体を震わせる。
 視線はそのまま彼を捕え、クラスメイトの発言に疑問を投げ掛けた。
「どうして?」
「やっかんできたセンパイを病院送りにしたとか、そういう物騒な話題が多いんだ」
「それに…」
 クラスメイトは一呼吸置いて引きを作る。
 苗木は内心またか、と溜息を吐きたくなるのを呑み込んで、クラスメイトの次の言葉を待った。
「あいつの側に居ると不幸な目に遭うんだってさ」
 わざわざ引きを作って自慢げに話すクラスメイトに内心辟易しながらも、一応驚いた振りをする。
 余計な詮索をされるのは面倒だったし、今の自分達の関係をどう表現したらいいのか苗木自身戸惑っていたというのもある。
 小学校から繰り上がった者が少ないため、苗木が狛枝と懇意にしていたことを知る者は少ない。
 よしんば知っていたとしても、狛枝の事情を知る者は勝手な憶測を立てて口を閉ざしているのが現状だ。


『狛枝凪斗の側に居ると不幸な目に見舞われる。』

 そんな噂が広まったのはいつからだろう―――。


 始めは些細なことだった。
 いつものように砂場で遊んでいた二人だったが、急に苗木が火の付いたように泣き始めた。
 慌てて母親が駆けつけると、砂にガラス片が混じっていたのか、苗木の手首にかけてすっぱりと大きな切り傷が出来ていた。
 近くに病院もなかったので救急車を呼んで病院へ向かった所、数針縫うことで何とか落ち着いた。
 小さくない出来事に、その砂場は安全性の面から封鎖されることになってしまった。
 共通の遊び場を失くした二人は小学校の入学式まで再会することはなかった。
 苗木は再び狛枝に会えたことを素直に喜んでいたが、狛枝は苗木の怪我の一件を気にしてか、どこか気まずそうだった。
 傷は後遺症もなく疾うに完治していたし、苗木は生来の前向きさから、狛枝に変わらず接した。
 狛枝自身も初めての友人である苗木の明るさに救われ、二人は離れた時間を埋めるように再び仲を深めていった。
 公園の時のような大きな傷を作らないまでも、少し抜けている性格と運の悪い体質が相俟って、苗木は度々生傷をこさえていた。
 特に気にした風もなく笑顔でいる苗木に、狛枝は釈然としない表情を浮べていたが、苗木は特に気にすることもなく、自分の運のなさに少しだけ苦笑するのだった。

 そうして穏やかな関係を続ける二人の関係は唐突に変化を迎えた。
 二人が小学4年に上がった時、狛枝の両親が交通事故で亡くなったのだ。
 狛枝の両親は仕事の関係で狛枝を一人置いて家を空けることが多く、事故も仕事から帰宅する際に起きた不幸だった。
 両親からその話を聞いた苗木はいてもたってもいられず、狛枝の家を訪ねた。
 迎えた狛枝は不自然なまでに普段通りで、そんな狛枝の様子を見た苗木は玄関前で泣き出してしまった。
 慌てて家に招き入れ、何とか宥めすかそうとする狛枝だったが、苗木の癇癪は中々止まらない。
 狛枝よりもよっぽど悲しんで泣き続ける苗木に狛枝はただ苦笑するばかりで、その表情が悲しみの色に変わることはなかった。
 苗木は両親を亡くして悲しくないのか、と幾分落ち着いてから聞いた所、狛枝は特に変わりがないから悲しみようがない、と普段と変わらない調子で答えた。
 そんな狛枝の様子に苗木は再び涙がこみ上げる。
 狛枝はさらに、この大きな家に一人でいることは慣れているし、自分は見た目もこんなだから両親には疎んじられていたんだと続けた。
 その表情には苗木に初めて自分のことを打ち明けたことに対する僅かな緊張はあれど、親に愛されない子どもの悲哀などは欠片も感じられなかった。
 苗木は必死にそんなことはない、とぐちゃぐちゃの顔で訴え続けたが、その言葉が彼にどれくらい伝わったのかは苗木の知る所ではない。
 必死に狛枝を慰めようとする苗木に、ありがとう、と少しだけ頬を染めて笑った狛枝に苗木は泣くのも忘れて見蕩れてしまった。

 狛枝が気を利かせて両親に連絡をしてくれたので、苗木はそのまま狛枝の家に泊まることになった。
 少しでも狛枝の力になればと思って来たというのに、却って狛枝に迷惑を掛けているような気がして苗木は内心気恥ずかしくてならなかった。
 そんな苗木の内心を知ってか知らずしてか、狛枝は苗木クンが居てくれて良かったと笑うのだから卑怯だ。

 初めて訪れた狛枝の家は各地からの珍しい物が揃っており、苗木の目を輝かせた。
 狛枝はそんな苗木に一つ一つ懇切丁寧に説明する。
 自分達の他に誰もいないせいか、静謐な空間はまるで世界に二人きりしかいない様な錯覚を起こさせた。
 珍しい物で満ち溢れた空間はさながら二人だけの秘密の宝箱のようで、二人はしばし哀しい現実も忘れて遊び耽る。
 ひとしきり見終わると、狛枝は苗木を自室へと招いた。
 狛枝の部屋は雑多な物で溢れている苗木の部屋とは違い、必要最低限の物がきちんと並べられていて清潔感があった。
 本棚には苗木には分からないような難しい本がぎっしりと詰まっていた。
 狛枝はそこから徐に一冊引き抜くと、苗木に読んで聞かせてくれた。
 自分が妖精の国の王女の生まれ変わりだと教えられた少女が、王女であることを証明するためにいくつもの試練を受けるという物語だった。
 メルヘンチックな話にも関わらず、出てくる怪物はどれも不気味で薄気味悪かったが、それ以上に異国の言語で書かれた絵本の多彩な描写には強く惹きつけられる物があった。
 最後はハッピーエンドで幕を閉じ、気付けば残酷なまでに美しいその物語に魅了されていた。
 狛枝に言わせると、この物語は辛い現実から逃れるための少女の妄想らしいが、苗木にはとてもそうは感じられなかった。
 そう素直に話すと、苗木ならこの話をハッピーエンドにしてくれるだろうからどうしても聞かせたかったんだと狛枝は微笑んだ。
 自分の考えが見透かされたようで恥ずかしかったが、それ以上に狛枝が自分のことを理解してくれている気がして、同時にこそばゆくもあった。
 その後、二人は一緒の布団にくるまり手を繋いで眠りについた。
 この日繋いだ手の温もりを苗木は生涯忘れないだろう。

 次の日、両親に迎えられた苗木はしぶしぶ学校へと向かった。
 クラスで狛枝の両親の訃報が知らされたが、苗木は上の空で何も頭に入ってこなかった。
 だからその時流れた微妙な空気に苗木が気付くことはなかった。
 隣に狛枝がいないことが寂しくて、そのことだけで頭が一杯だった。
 昨日は手を伸ばせばすぐ側に彼の温もりを感じられていたのに-――。
 思えば、苗木の隣にはいつも狛枝が居た。
 苗木は心のどこかに穴が開いたようで、ひどく落ち着かない気分になった。
 同時に、狛枝があの大きな家に一人きりで居るのかと思うとやり切れない気持ちになった。
 彼は昔からあそこで帰って来るかもわからない親の帰りを一人で待っていたのだろうか。
 そう考えると苗木の胸は途端にもやもやした物で一杯になるのだった。
 窓の外の景色はそんな苗木の心境を笑い飛ばすかのように、憎たらしい程澄み切っていた。

 狛枝の両親が亡くなってから数日が経った頃、お通夜が執り行われた。
 苗木も両親に連れられて参加したが、久しぶりに会った狛枝はどこか様子が違っていて、苗木は言い知れぬ不安を覚えた。
 苗木の脳裏にこのまま狛枝が自分の知らないどこか遠くへ行ってしまうのではないかという恐ろしい考えが過ぎり、通夜よりもそちらの方に意識が持っていかれてしまい、気もそぞろになっていた。
 そのせいもあってか、苗木にとって初めての死の印象は薄ぼんやりとして、まるで現実味がなかった。
 お香典をする際に垣間見た狛枝の表情は、感情を全て削ぎ落としたかのようで、苗木は嫌な予感を募らせた。

 諸々の手続きのため、狛枝は一週間程学校を休んでいた。
 その間、苗木は最後に見た狛枝の表情が頭から離れず、何も手に付かない状態だった。
 早く狛枝に会って一緒に笑い合えればこんな不安もなくなるのに、そう思って苗木は狛枝のいない日々を悶々として過ごした。
 
 必要な手続きを済ませ、再び学校に来るようになった狛枝は苗木の予想通り明らかに様子がおかしかった。
 苗木に会ってもピクリとも表情を動かさず、何物にも心を動かさない様は、初めて狛枝と会った時と非常に酷似していた。
 このままでは狛枝は壊れてしまう。
 どうにかしなければならないと気だけは焦るも、苗木には狛枝がどうしたら以前の彼に戻ってくれるのか分からなかった。
 狛枝の望む物を持っている自分、そんな自分が彼に何を言っても無駄なのではないか。
 そんな不安がもたげたが、何かしら自分が狛枝に与えられる物はあるはずだと自分を鼓舞し、ない知恵を絞って案を考える。
 ふわり。
 その時、芳しい匂いが苗木の思考を遮った。
 これだ!! 良い考えが思い付いた苗木は足取りも軽く帰路についた。
 
 次の日、いつもより少し早めに家を出ると、学校から少し離れた所にある花畑に狛枝を連れ出した。
 これで狛枝の気が少しでも晴れれば、という願いを込めてのことだった。
 花畑には折好くコスモスの花が咲いており、花壇一杯に咲き乱れる様子は圧巻だった。
 他にも彩り豊かな秋の花達は見ているだけで心が洗われるようだ。
 恐る恐る狛枝の方を振り向くと、狛枝は苗木の方を向いてにっこりと笑った。
 それだけで苗木は嬉しくて思わず泣きそうになったが、そこは意地で堪える。
 お礼とばかりに狛枝は苗木に花冠を作ってくれた。
 苗木もお返しに作ろうとしたが上手くいかず、代わりに簡素な指輪を作って狛枝に渡す。
 初めて自分の前で弱音を吐いてくれた狛枝が愛おしくて、自分だけはいつまでも彼の側にいようと心に誓った。
 案の定、授業をサボったのがばれて親にこってりと絞られたが、そんなことは苗木には関係なかった。
 狛枝と本当の意味で友人になれた気がして、それだけで苗木はどんな宝物を手に入れるよりも幸福な気持ちになれた。
 傍目から見れば何も変わりはなかったが、二人の間の友情は今まで以上に深く、揺るぎない物になった。

 しかし、そんな暖かな日々も長くは続かなかった。
 二人が他愛もない話をしながら下校していると、苗木めがけて自動車が歩道に突っ込んできたのである。
 猛スピードでこちらへ突っ込んできたかと思うと、自動車はそのまま脇にあった店に激突した。
 幸い苗木に外傷はなかったが、一歩間違えれば死んでいたかもしれないという事態に二人は背筋を凍らせた。
 苗木は何もなくて良かったと何でもないように話したが、狛枝はそんな苗木の言葉も耳に入らないようで、ただ顔を青褪めさせるばかりだった。
 似たような事件はそれからいくつも起こった。
 階段から落ちそうになったり、上から看板が落ちてきたり。
 流石に苗木も不思議に思ったが、どれも大事には至らなかったためさほど気にも留めなかった。
 けれど狛枝は違ったようだ。
 その日以来、狛枝は苗木と一緒に居る時に一人神妙な面持ちをして考え事をすることが多くなった。

 そんなある日のこと、それは起こってしまった。
 苗木が飛んできたボールを避けようとして階段を踏み外し、頭から下に真っ逆さまに落ちてしまったのだ。
 幸い頭の方は軽い脳震盪で済んだが、落下する際の衝撃で左足を骨折したので入院することになってしまった。
 学期末ということもあり、学業にも大した支障をきたすことなく過ごせたのは不幸中の幸いといった所か。
 しかし、学校に行かなければ狛枝に会うことは出来ない。
 あの日以来、苗木は狛枝とより親密な関係になれたと思っていただけに残念でならなかった。
 それに、こうやって離れることで、あの日のように狛枝が苗木の知らない所へ行ってしまうのではないかと怖かったのである。
 病室は年寄りが多いせいか遊び相手もおらず若い苗木には非常に退屈だった。
 薬品の匂いも鼻につき、嫌な考えが頭の中を堂々巡りして気が滅入るばかり。
 狛枝も最初は毎日顔を出してくれたが、ある日を境に全く顔を出してくれなくなってしまった。
 自分が何か悪いことをしたのか、理由を聞こうにも入院中の身では容易く聞くことも出来ない。
 いつあの特徴的な白い髪が見えるかと期待して窓を眺めては落胆する日々が続いた。

 どうにか新学期が始まる前に学校に戻ってきた苗木は狛枝の姿が見当たらないことに気付いた。
 忽然と、狛枝は苗木の前から姿を消してしまった。
 教室に行っても苗木が退院してからずっと欠席しているようで、家を訪ねても全く反応がない。
 そうしているうちに新学期が始まり、クラス替えで苗木と狛枝は離れ離れになり、一気に疎遠になってしまった。
 狛枝と離れて初めて、苗木は狛枝に付きまとう噂を耳にしたのだった。

『狛枝凪斗の側にいると不幸な目に見舞われる』

 中学に入ってからは噂が噂を呼び、久しぶりに見た狛枝の顔はかつてのような無表情に戻ってしまった。
 たとえ噂が本当だったとして自分が怪我をしようとも、苗木は狛枝と一緒に居られれば十分だった。
 あの日の約束を胸に燻らせてはもどかしい日々が続くばかり。
 クラスメイトの他愛のない話もうまく頭に入らず、苗木は再び溜息を零した。
 この場から彼の側に駆け寄れるなら、自分は何だって差し出せるだろう。
 その気持ちが何に由来するのか、苗木はまだ気付いていなかった。
 そして、また一つ―――。
 苗木の口から溜め息が零れ落ちた。

     

「ふん、希望の踏み台にもなれない奴が……」
 見上げた青空は狛枝の心情とは裏腹に曇り一つなく冴え渡っていて、狛枝は不機嫌さを隠そうともせずに舌打ちする。
 狛枝の舌打ちを聞いて巻き込まれたくないと思ったのか、先程まで下駄箱付近で屯していた人々は狛枝を遠巻きにしてそそくさと離れて行った。
 自身の不穏な噂を今更撤回する気はない。
 多少誇張があるものの、どれも事実だったので弁明のしようがないというのもあった。
 元から他人と関わることも好きではなかったし、むしろ好都合だ。
 この世でただ一人、大切だと思える人と添い遂げられないのなら、他の人間が近くに居ても迷惑なだけだ。
 大切な人を傷付けるこの体質を何度憎らしく思ったことか。
 思わず拳に力を入れ過ぎたのか、手の平に鈍い痛みが走る。

 ふっと視線を上げると、窓側に座る彼の姿が見えた。
 友人達と肩を並べて楽しそうに話をしているようだ。
 彼の笑顔は初めて会った時から変わらず、とても眩しくて暖かかった。
 昔は自分があの場所にいてあの笑顔を一身に受けていたと思うと、胸が締め付けられるようだ。
 もう戻れない過去の楽しい日々を思い出して胸の奥がじくじくと痛むのを感じ、堪らずその光景から背を向けるように狛枝は裏門へと足を向けた。
 この感情が何か敏い狛枝は疾うに気付いていたが、忌まわしいこの能力が狛枝にそれを認めることさえ許してはくれない。
 自分の今居る位置と、そして、彼の居る位置。
 手を伸ばしても届かないと嘲笑われているようで、狛枝は忌々しげに舌打ちする。
「おいおい、センパイに向かって挨拶もなしかよ」
 人目を避けるために裏門まで遠回りしたというのに、案の定ガラの悪い連中に絡まれてしまった。
 丁度いい、憂さを晴らさせてもらうか。
 狛枝は無表情な顔に少しだけ笑みを浮かべた。

     

「なぁなぁ、この後カラオケにでも行かないか? 」
「あっ、見ろよ。また狛枝が喧嘩してるぜ!! 」
「………!? 」
 苗木はその言葉を聞くとクラスメイトの静止も聞かず、慌てて教室を出ていった。
「おい、苗木!! どこ行くんだよ!? 」
「あいつ、どうしたんだ…? 」
 苗木の突然の行動にクラスメイト達は互いに顔を見合わせ茫然とするばかりだった。

 階段を慌てて駆け下り、上履きを履き替えるのもいとわず裏庭へと向かう。
 久しぶりの運動にどうしようもなく息が上がるが、それを気にしている余裕はなかった。
 早く、早く…!!
 とにかく彼の元へと一刻も早く行きたくて、身体が悲鳴を上げるのも構わず苗木は足を必死に動かした。

「狛枝クン…!! 」

 彼とこうして面と向かって話すのは何時振りだろう。
 既に決着は付いたようで、足元には今まで対峙していた相手が地に倒れ込んでいた。
 苗木は制服に付いた汚れを余裕たっぷりに振り払う狛枝の手を反射的に握る。
 久方振りの温もりは暖かさなど微塵もなく、ひどく冷たい物だった。
 それでも苗木には狛枝が目の前にいるということが嬉しくてたまらず、思わず目元が滲みそうになる。
「………」
 苗木の手を邪険に振り払い、何も言わずに立ち去ろうとする狛枝になおも苗木は食いつく。
 自分達は来年卒業する、きっと狛枝は自分の知らない遠い所へ行ってしまうだろう。
 その前にどうしても一言だけでも話しておきたかったのだ。
 昔のようにとはいかないまでも、たまに会って話をするくらいの普通の関係に戻りたかった。
 切羽詰まった苗木の態度に聞く耳を持ってくれたのか、狛枝は苗木の次の言葉を促すように苗木をじっと見つめる。
 その瞳にはかつてのような優しさはなく、どこまでも暗く濁っていて苗木を落ち着かない気分にさせた。
 自分の知らない顔にひるみそうになるも、苗木は必死に回らない頭で言葉を手繰り寄せる。
「えっと、その…、狛枝クンは高校どこへ行くのか決めたの?」
 大したことも引き出せない自分の語彙の少なさに内心苛立ちながらも、すがりつくように言葉を紡ぎだす。
 ここで離れたら自分達はもう二度と昔のようには戻れないという確信があった。

 本当はもっと色々言いたいことはあった。
 怪我はしてないか、噂についてどうして弁明しようとしないのか。
 それから、どうして自分から離れてしまったのか-――。
 でも狛枝を前にしたら何もかもが吹き飛んでしまった。
 苗木誠という存在は狛枝凪斗を目前にしたら何も取り繕うことが出来ない程真っ裸にしてしまう。
 苗木にとって狛枝という存在はそれ程までに鮮烈な物だったのだ。

「ボクは希望ヶ峰学園に行く」
 きっぱりと告げられた言葉の意味を理解出来ず、苗木は唖然とする。
「え、希望ヶ峰学園…?」
「そうだよ、ボクは才能を見出されたんだ。キミみたいな希望の踏み台になれないような人間とは違ってね!! ボクは選ばれたんだ、選ばれた人間なんだ!! 」
 突然狂ったように笑い始める狛枝に苗木は目の前が真っ暗になったような心地になる。
 狛枝のことは誰よりも理解しているつもりだったが、それは自分の思い込みだということを突き付けられたようだった。
 月日が彼をそうさせたのか、それとも昔からこんな一面を持っていたのか。
 苗木には知る由もない。もう知る資格も与えられてはいないのだ。
 それは明確な拒絶だった。
 狛枝が苗木から離れた時、何も言わなかった。
 だから月日が経てばまた元の関係に戻れるかもしれないと思っていたが、それは苗木の幻想だったようだ。
「ボクはね、キミとは違うんだ。希望の踏み台になることがボクの意味だったんだ」
「希望…踏み台……何を言ってるの?」
 口の中が乾いて仕方がない。彼は何を言ってるんだろう。
「キミとボクはもう永遠に相容れないってことだよ。さようなら、ボクに金輪際近寄らないでもらえるかな」
 そう言った狛枝の目はまるで苗木をそこら辺の石ころでも見るかのような蔑んだ瞳をしていた。
 狛枝の口からこぼれた残酷な言葉に苗木はもはや何も言うことが出来ず、その場に崩れ落ちる。
 苗木は去って行く狛枝の背中をただ呆然と眺めることしか出来なかった。
 しかしそれも視界が滲んで上手く見ることは出来なくなってしまった。


「おい、大丈夫か? 」
「え、何が…? 」
 いつの間に来たのだろう。
 狛枝に向かっていく苗木を心配してか、気付いたらクラスメイトが苗木を心配そうに見つめていた。
「何って…狛枝に話し掛けるなんて頭湧いてるのか? 」
「あぁ、そういうこと。うん、大丈夫だよ。大丈夫だから……」
 苗木は半ば自分に言い聞かせるように答えた。
 自分は大丈夫。こうなることは薄々分かっていて、それでも諦めきれず狛枝に向き合ったのだから。
 覚悟していたとはいえ、胸が張り裂けるように痛かった。
 狛枝から別れを告げられたせいではない、それは疾うに嫌という程味わっていたから。
 彼がもう何もかも諦めたことを知ってしまったのが悲しかった。
 どうしたらボクは彼を救ってあげられるんだろう?

 ねぇ、お願いだからキミを諦めないで。
 ボクはキミの希望にはなれないかもしれないけど、誰よりもキミのことを……。
 気付いた気持ちはもう手遅れな程、遠く、彼方へと行ってしまった。

 静かに泣き続ける苗木にクラスメイトはただ呆然と見守ることしか出来なかった。

     

         #   #   #
 

   
 苗木が地元の私立高校に通ってから、早くも6ヶ月が経とうとしていた。
 最初は慣れない制服も、今では大分体に馴染んできたように思う。
 あれ以来、狛枝と話すことはおろか、廊下ですれ違うこともなく、二人は中学を卒業した。
 希望ヶ峰学園は寮生なので、狛枝はこの機会に家を売り払ったようで、もはや連絡のしようがなかった。
「そういえば、凪斗クンは希望ヶ峰学園に行ったのよね。すごいわね〜元気にしてるかしら」
 母親の何気ない一言に内心ビクビクしながら、苗木は平静を装って当たり障りのない返事をする。
 未だに彼のことを考えると胸の奥が鈍く痛み出す。
 あの日自覚した気持ちは大きくなるばかりで、諦めきれない自身の女々しさに一人苦笑する。
 夕飯の手伝いをしながら、苗木は希望ヶ峰学園にいるであろう狛枝へと思いを馳せる。
 
 彼の言う希望には出会えたのか。
 出会えなければいいのに、そう考えてしまう自分の卑しさに自己嫌悪に陥る。
 彼に幸せになってもらいたいが、それをするのは自分であって欲しい。
 傲慢と罵られようが、そう願わずにはいられなかった。
 そんな苗木の考えは、妹が大きな音を立ててリビングに掛け込んで来たことにより強制的に終了した。
「お兄ちゃん、これ見て…! 」
 急き込んで話す妹の手にあるものを見ると、そこには何度恋い焦がれたか知れない校章が。
「これって希望ヶ峰学園の…? 」
「そうだよ! お兄ちゃん、希望ヶ峰学園に招待されたんだよ! 」
 自分よりもはしゃぐ妹を横目に、苗木の思考は至極冷静だった。
 
 希望ヶ峰学園に入れば彼と同じ土台に立つことが出来る。
 まだ彼を諦めなくてもいいのかもしれない。
 そう考え及んだ苗木の瞳は確かに光り輝いていた。





不運の先に
(希望があると信じてもいいですか?)
















あとがき

狛苗について真剣に考えてみた結果、狛苗って狛枝がアレなので苗木君が行動を起こさないとくっつかないという考えに至り、そういうことを色々考えた結果、こんな物が出来上がりました。
本来、これは二人がすれ違って終了する予定だったんですが、煮詰めている間にくっつく所までの筋道が薄ぼんやりと出来上がってしまったので気力があればそこまで書きたいと思っています。

絵本は『パンズラビリンス』という実際の映画をイメージして書きました。
作中にもある通り、捉え方が人によって大きく異なる映画です。
面白いので興味がある方は是非ご覧になって見てください。






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