深夜0時を過ぎて夜勤の交代を終えた私が、くたびれた身体を休める為だけに自宅のマンションのドアを開けると
そこには昨晩呑んだアルコールの匂いがまだ残っていて、胃が少しムカついた

二日酔いの名残がこの歳になると辛い、ましてや時間帯だってまばらなこの職業
自分のペースとか体力とかスケジュールを考えないともう色々と言うことを聞いてくれないのも事実
身体に良くないと分かっていても、こんな時むしゃくしゃする気持ちを落ち着かせてくれるのがアルコールだということも嫌と言うほど知っている

冷蔵庫を開ける、電気すら点けない室内に薄明るい光と電子音、中はいつも通りからっぽで、干からびたレタスが端っこに転がっていた
並ぶビールの缶を一本取り出してプルタブを引く、ああこの音、そして炭酸の弾ける淡い匂い、やっぱ仕事明けはコレに限る、私は口を付けてぐいっと喉に流し込んだ

ビール片手にシャツのボタンを外し、スカートのホックも外してファスナーを下げるとすとんと床に落ちる、同時に解放感
シャワーは明日の朝でいい、化粧だってほとんど剥げてるけど、このまま寝たらお肌に良くないって分かってるけどもう、億劫だ

苛立ちは色んなものを面倒にしてしまう、そんな自分の結論に明日の朝後悔するって分かってるのに、でもこればっかりは仕方無い

空っぽになった缶をシンクに放り投げると私は、そのままダイニングを横切って寝室のドアを開けた

一人暮しの部屋は広すぎず狭すぎず、偶に恋人と眠ったり食事をしたり、そんなスペースがあれば十分だと思っている
寝室もシンプルにベッドがひとつ、長身で意外と体格の良い恋人が横たわるのに適した、ダブルサイズだ

…またひとつ苛つきが走って私は、チッ、と舌打ちを一つ
しかし程よくアルコールと疲労に誤魔化されてそれは、まるでさっきの泡の様に弾けて消えた

昨晩の匂いが寝室に残っている、虎徹の香水と汗のものだ、慣れ親しんだそれは翌日一人のベッドの時に少しだけ切なさを与えるものだった
でも今夜は違う、昨日の喧嘩を思い出してしまって逆に、今は腹立たしさと言いようもないやりきれなさを込み上げさせる

今日、メールひとつ寄こさなかったあの男
分かってる、悪いのは虎徹じゃない、そして私だって分かってて付き合ってるんだからお互い様だ

何度も繰り返したけど別れる理由になんてならなかった、だから今回もきっと明日か明後日には何食わぬ顔で職場に顔を出すか、メールを送ってくるのだろう

…もう、寝よう
もう日付だって跨いでいる、ムカつく事は昨日に置き去りにして、私は数時間後の仕事を大切にしなければいけない
男の事だけに頭を一杯にして眠れない夜を過ごせるほど、若くも無いし暇でも無い

下着はそのまま、ブラジャーも面倒でストッキングはベッドの上で脱げばいいと私は、冷えたシーツに身体を放り込んだ

しかしそこには、体温が、あったのだ

「………、ぎゃああああ!!…っ、ぐ!」

「あー叫ぶな叫ぶな、近所迷惑だろうが。変質者とかじゃねーから、な?」

耳元で声、口を押さえる手の平の匂いと少し乾燥した皮膚感は良く知るもの
こ、て、つ!?と声にならない声で口をぱくぱくさせると、ようやくその手が離れた

「おっとお、あっぶねぇ!」

反射的に飛ばした平手打ちを難なく片手で受け止めて虎徹は、私をその腕の中に引き寄せる
縺れ合うようにベッドに雪崩れ込んだ、昨晩も感じたこの質量、身体は身勝手に甘さを思い出してずぎん、と胸が疼いた

しかし怒りはまだ、私の中から消え去っていない

「…ちょっと!何のつもり!?勝手に忍び込んで勝手にベッドで待ち伏せして、変質者そのまんまでしょ警察呼ぶわよ不法侵入でしょ、変態!」

「おーお、ひっでぇ言われよう。つか恋人同士で合い鍵持ってて不法侵入とか、言わないだろそれ」

「いーから出てって、アンタの顔なんて見たくないって昨日言った!」

「俺は見たいの、逢いたいの、触りたいのよ名前ちゃんに」

「知るか!って何脱がしてんのよっ、ヘンタイ!」

「えー、だって邪魔だし?」

するすると慣れた手つきでブラジャーを外す虎徹、ぽろりと暗がりに零れた乳房を私は自分の腕で隠して、残った片方の手で虎徹の肩を押す
しかし頑丈な作りのその筋肉に覆われた身体は、びくともしない

「だあって、俺の話、こうでもしないと聞いてくんないっしょ?」

「こんな事してても聞かないものは聞かないわよ!もう一度だけ言うけど、いいからもう、出てって」

するすると器用に片手だけでシャツのボタンを外してネクタイを緩める仕草、窓から僅かに差し込む夜の灯りと大人二人分の空気、ベッドの上で触れる身体
いつも綺麗に整えた髭と、そこから続くのど仏、首の筋肉の流線と覗く鎖骨、甘い匂い
私は虎徹の片手で呆気なく両手首を頭の上で押さえつけられていて、力でなんて敵うわけもない、蹴りつけてやろうにも身体ごと押さえ込まれていた

「…昨日は悪かったよ、その」

強引に押し倒している体勢には似合わないような、謝罪の言葉が至近距離から落ちてきて私は
このタイミングでそんなコト言うか、と情けなさと不意打ちにやられて、結局は気が付けば虎徹のペースに陥りつつある

昨晩の喧嘩の原因はいつも通りで、世間に顔を隠してヒーローを続ける虎徹と、シュテルンビルトで働く看護師の私
怪我ばっかりして自分のことを顧みない、人のことばっかり考えて自分の事を考えない、アンタの性格なんて百も承知、でも
そんなことしてても笑ってる虎徹に腹が立つのだ、バカじゃないか、誰かが傷ついたら泣く人いんだろ、って言ってるアンタが傷ついて、泣く女だってここにいるのに

怒っても泣いても叱っても揉めても喚いても、絶対に私の言葉なんて聞いてくれないって分かってる
そんな虎徹が好きだったし、そんな虎徹が好きな自分がバカなんだと思ってる
でも、諦めるなんて出来ないし心配せずに日々を過ごす事だって無理だ、だから私はいつもこうやって虎徹に怒鳴るし虎徹も謝る、それで終わり

「…いっつも、口先ばっかり」

「…あー、うん、そうだな、その通りだ」

「ちょっとは努力とか、有言実行とか、しなさいよ」

「まあ、頑張っちゃいるんだけどなー、難しいんだよ色々と」

「…あのね、あんまりこんな事ばっかりしてると」

「…別れる、って?名前がそれが一番良いってなら、俺は」

「うっさい黙れバカ!アンタみたいな男と一緒に居られるような女、滅多に居ないでしょうが!もっと足掻きなさいよ!」

「ハハッ、そだな。でも俺、お前が幸せならそんでいいんだよ」

「…ほんと、バカ…!ああもう、私もバカ!…いーい、一回しか言わないわよ、あとで絶対後悔するって分かってて言うんだからね、耳かっぽじってよーく聞きなさい」

「……は?」

きょとん、と目を丸くする虎徹
ああ、そんな顔はとても無防備で、まるで子供みたいで、悔しいけれどやっぱり私、アンタのことが

「…私は虎徹だけを愛してるの!怪我しても手足無くなっちゃっても頭おかしくなっても私のこと分かんなくなっちゃっても、最後まで看病して付き添って添い遂げてあげる自信あるんだからね、だからなるべくでいいから、長生きして!」

息継ぎ無しでそう叫ぶと、二人の間に沈黙が、数秒
思わず勢いよく吐き出してしまったけれど、それが余りにも耐えられなくて私は、耳から顔から身体中まで熱くて熱湯に浸かっているような体温上昇と変な汗をかいていることに気が付き、一瞬緩んだ手を振りほどいてベッドから逃亡を計った

「きゃあああああ今のやっぱ、嘘、ナシ、気のせい!!」

「タンマっ、待てっコラ、お前なああああ!!!」

どすんばたん、とベッドから転がり落ちた私を追いかけて虎徹が上からのし掛かる、床の上には昨晩の呑んだ痕跡が残っていて、カランコン、と缶の転がる音

「きゃあああ変態!犯される!!やーだー!!」

「だあ!うっさい黙れ!……いや、やっぱ黙るのナシ、な、今のって、逆プロポーズ?」

「知らない知らない言って無い、顔近い虎徹、ちょ、っ」

「いーじゃんもっと見せろよ、あーもうちっくしょ、可愛いなぁお前、やっぱ」

「なななな何言ってんのよ!!」

「えー、可愛い可愛い可愛い、俺も愛してるぜ名前、どさくさに紛れて言っちまうけど」

二日酔いのいい大人が二人、昨晩の片付けすらしていない室内で、ビールの缶と脱ぎ散らかした衣類にまみれてプロポーズだったり愛の告白だったり
なんだかもう恥ずかしさとかを通り越して、笑いが込み上げてきた

なんて私達らしいのだろう、この適当さと大人のだらしなさと、それぞれの事情と生き方と、素直になれない年相応の狡さがごっちゃまぜで
こんなシチュエーションだからバカみたいにそんなこと言い合えるのだと思うと、そんな人生も悪く無い、なんて思えてきた

「はー……、ばっかみたい」

「だなー、バカだよなー、でもいいだろ?そーゆうのも」

結局は誤魔化しきれない愛情をお互い抱えていて、抱き合って体温を混じらせればそれは、言葉じゃなくても伝わる感情がある

「…で、どーすんの」

さっきからもぞもぞと擦りつけてくる虎徹の身体は、年齢の割りに欲に忠実だった
こんな夜中に恋人同士、痴話喧嘩も終わってやることといったら、ひとつしかない

「ん、そりゃあもう、このまま」

「え、ヤダ、私汗かいたまんまだし、メイクも落としてない。シャワー浴びてくる」

「なーに言ってんの、それがいいんじゃねーか。俺好きだぜぇ、名前の匂い」

にやり、と狡さを籠めた企み顔が妙にセクシー、有無を言わさぬ強引な手が私の膝を持ち上げて、そしてそのまま滑って踵を掴んだ
まだストッキングを履いたままの足は一日の疲れで少しむくんでいたし、何より汗やらなんやら、あまり綺麗なもんじゃない
それなのに虎徹はまるでガラス細工を扱うようにそっと優しく私の膝にキスをすると、そのままするするとふくらはぎから足首へと、唇を滑らせた

「や、や、ちょ、何考えてんのよ!!」

それがシャワーの後とかなら別にそこまで拒絶しなかっただろう
しかしこの世のどこに、仕事帰りそのまんまの足の匂いを嗅がれて喜ぶ女がいるというのだ、いや、いるのかもしれないけれど私にそんな趣味は、無い

「名前ちゃんの事しか考えてねぇよ、ほーら」

「ぎゃああああ!!嘗めるな!!食うな!!変態!」

「あんな名前、俺のこと変態変態って言い過ぎ。俺ぐらいのオジサンになるとなんっつうか、こう、フェチ?みたいな。ぴっちりくっついたストッキングとか匂いとか、たまんねーってなるワケ。あ、勿論名前限定な」

そう言って虎徹はにやりと笑うと、私に見せ付けるように、私の足の指を口に含んだ

「………!!!!」

「お、いいねその顔、ゾックゾクするねェ」

早くも自分の決意に後悔し始めていた、私の斜め上をいくこのオジサンは、どこまでもオジサンでちょっと変態で、でも嫌いになんてなれないんだから仕方無い

「愛してんぞ、名前」

また場違いな愛の言葉に私は性懲りもなく、嬉しくなってしまって、そして

腹いせに床に転がっていたビールの缶をひとつ掴んで、そのバカみたいにニヤけた虎徹に向って投げつけていた



堂々とした不届き者