堕ちゆく天使 | ナノ

03

レイジュ様に助けられて、一ヶ月程経つというのに失った記憶はまだ戻らない。思い出そうと思っても、頭の中は真っ黒だし、何の手がかりもない。少しくらい何かを覚えていれば早く思い出せるのに。

レイジュ様の部屋の窓から外を眺めれば、この一ヶ月で見慣れた海の景色。私は一体どこの誰なんだろう。どんな島に住んでて、私の親はどんな人なんだろう。しかし、知りたくてもわからない。このもどかしさが時々胸を締め付ける。だからと言って、自分で自分の事を調べたくても調べられない。ジャッジ様、自ら私の事を調べてくれるとかで。断れば、威圧感で制され、それ以上何も言い返せなくなり、レイジュ様も調べる事を禁じられてしまった。

ジャッジ様は何を考えているのか。何だか本当にレイジュ様が言っていた通り、気を付けた方がいいかもしれない。


「もう少しで終わる」


呟いた独り言は静かに虚しく消え、部屋には掃除する音だけが残る。私の主は昨日から任務で出ていて、いつもなら召し使いの私は船まで同行していたのだが、今日は夜には戻れるとの事で私は残された。それにレイジュ様の部屋の掃除が終わったら休んで良いとも言われていた。召し使いなんてものは休みは滅多にない。だからか、レイジュ様は気を使ってくれたのかもしれない。何でここまでしてくれるのか、不思議だったけど、その理由はあえて聞かなかった。

そしてレイジュ様の掃除も終わり、そんな事を考えていればレイジュ様はまだ戻られていないのに、部屋の扉がノックなしでガチャと開く音がして。その音に驚き、見てみればそこにはヨンジ様の姿があった。


「よぉ」
「ヨンジ様! どうなされましたか?」


レイジュ様はまだいませんが。と言ってみれば、お前に用があると言ってくるヨンジ様。私が助けられた日以来、イチジ様とは違う形でニジ様と一緒に絡んでくるヨンジ様。他の使用人達にはまるで空気のような態度なのに。やっぱり私がここへ来た経緯が原因なんだろうか。掃除用のタオルを手に握りしめたまま、動揺を表に出さず言えばヘラヘラと笑いながら、部屋に入り言葉を続ける。


「ちょっと暇なんだよ」
「そうですか……」


"暇だ"と訴えるヨンジ様。しかし、そんな事を言われても私は彼の召し使いではないし。暇潰しをしたいなら私ではなく、他の人にすればいいのに。と言えるものなら言いたい。そんな事を思っているうちにヨンジ様は私の目の前に来て、私を見下ろしてくるが思ったよりも近いせいで少し後ずさりしてしまう。


「今、レイジュいねぇし、お前も暇だろ?」
「い、いえ……まだお掃除終わっていません」
「そんなもん、後でやればいいだろ」


本当は掃除は終わっている。でもそう言えば、諦めてレイジュ様の部屋を出ていってくれると思ったのに、私の考えは甘かったようだ。去るどころか、無防備だった腕を突然掴まれてしまって。私の腕を遠慮なしに引っ張るヨンジ様。さすがジェルマ66、掴まれただけでそう簡単に振り払えない。ってそんな関心している場合じゃない。このままだとどこかへ連れていかれてしまう。


「っ、あの!!」
「ん? 何だ?」
「厨房のお仕事を手伝うようにと言われてるので!」
「あぁ? それも後でいいだろ」
「しかし……」


そんな嘘を思い付いて、悪あがきのように言っても離してはくれないヨンジ様。そりゃそうか、たかが召し使いに仕事残ってるからって言われて、解放してくれるような人たちじゃないよね。それはこの一ヶ月ここにいたことで実感した。しかしヨンジ様はまだ良い方かもしれない。そうは思うも、早くこの状況を打破しなければ。と思っていれば、兵の声が聞こえてきて。


「ヨンジ様! こちらでしたか!」
「ん? 何だよ」
「ジャッジ様がお呼びです!」
「……わかった。 すぐ行く」


開けっぱなしになっていたレイジュ様の部屋の前に慌てた様子で現れた兵士。その言葉でヨンジ様は掴んでいた私の腕をするりと離す。どうやらジャッジ様に呼ばれ、"暇"ではなくなったらしい。とてもナイスタイミングと思いつつも心の中で安堵のため息をつけば、ヨンジ様は数歩歩いた後に、私に振り返り、用が済んだら暇潰しの相手しろ。とニヤリと笑みを見せながら捨て台詞を残して部屋を出ていった。

安心したのもつかの間、そんな事を言われてしまえばいつジャッジ様の話が終わるのか気が気じゃない。もうこうなったら、本当に厨房の仕事を手伝わせてもらおうか。
そう思い付いた私は、慌てて厨房へと向かった。


のだが、厨房へ行く途中の廊下で、今日は出来れば顔を会わせたくない人物と遭遇してしまった。


「ニジ様……」
「ナマエがここにいるって事は、ヨンジに取られてねぇって事だな」


ゴーグルをしているが、ヨンジ様同様ニヤリと笑うニジ様。それに取られてないってどういう事なのか。しかし、戸惑う私を気にする事なく、どんどん距離を縮めてくるニジ様に対して後ずさりをすれば廊下の壁に背中が当たってしまって。

目の前には接近してくるニジ様。でもこれで逃げてしまえば彼の機嫌を損ねる事になる。そんな事をしてしまえば、それこそ何をされるかわからない。私はただただ、近づいてくるニジ様を硬直した体のまま見ている事しかできなくて。


「ナマエ、おれ今暇なんだけどよ」
「は、はい……」
「どうすればいいと思う?」
「!!?」


目の前に止まり、私の頭の上に片手を置くニジ様はそのまま体を少し曲げて、私の顔を覗き込んでくる。しかしそんな近距離でニジ様の顔を見ることができず、私は顔を逸らす。それにそんな質問されてもどう答えれば良いのかわからないよ。どうすれいいだなんて。無茶振り過ぎる。


「お前がおれの相手しろよ」
「え!? ……いや、それは」
「あ? 召し使いの分際で選り好みか?」
「いえ、そういう意味では!」


ニジ様に断ろうとすれば、こうやって言われてしまう。これじゃあもう"はい"か"Yes"しか返事が出来ないよ。理不尽しぎる。そう思っていれば、ニジ様は私の顎を掴み、クイッとあげ、自分の方へと向かせ、思ったより顔が近いせいで動揺してしまう。


「あ、あの……」
「やっぱ、おれ達は女の好みが似てるみたいだな」
「え?」
「なぁ、イチジ」
「!!」


しかし、突然私に向けてではなく、独り言のように言ったかと思えば、イチジ様の名前を出して。なんで、その場にいない人の名前を言うんだろうと思い、右を見てみればそこにはイチジ様がいて。ニジ様の事で頭がいっぱいだったせいか、全く気が付かなかった。それに比べ、ニジ様はイチジ様が近付いてきていた時からわかっていたのかもしれない。


「何の事だ」
「お前も、ナマエで遊びたいとでも思ってんだろ?」
「……」
「なんなら、お前からでいいぜ?」
「!!!」
「……ナマエ」
「ッはい!」
「今夜おれの部屋へ来い」
「え!?」


ニジ様がたまたま通りかかったイチジ様にふざけて言っただけかと思ったのに、それに便乗するかのように私に顔を向けて言ってくるイチジ様。まさか彼がそんな事を言ってくるなんて思ってもなかったから、戸惑いを隠せない。そしてイチジ様は私にそう言ったあとはまた歩き出し、去っていってしまった。


「イチジもやっぱりそうだったのか」
「……」
「おいナマエ」
「ッはい!」
「明日はおれの部屋来いよな」
「え、……」
「返事がねぇぞ」
「…………はい」


ニヤリと笑ったニジ様は私から離れ、イチジ様が歩いて行った方向とは逆に歩いて行った。

(2017/10/04)