堕ちゆく天使 | ナノ

25

二人から逃げ出した私はすぐに捕まるとわかっていても、必死に走った。視界が霞んでも、ひたすら走り、気がつけば自室がある部屋の近くまで来ていて。でも今、部屋に戻ったら、捕まる。そんな考えが頭を過った私は、そのまま自分の部屋を通りすぎた。

その時だった。

ガチャと、隣にあるレイジュ様の部屋のドアが開き、本人が出てきたのである。レイジュ様の姿を見た瞬間、私は召し使いの癖か、勝手に足が止まってしまう。


「ッ、レイジュ様!」
「あら、ナマエ」


少し驚いた様子を見せたレイジュ様は、息を切らしている私に「どうしたの?」と聞いてくるも、ニジ様から逃げ、追いかけられているとは言えず、言葉に詰まってしまう。


「おーい、ナマエ。 もう鬼ごっこは終わりだ。素直におれの言うこと聞け」
「!!」


レイジュ様の言葉に戸惑っていれば、後ろからはニジ様の声が響いてきて。反射的に後ろを振り向くも姿は見えないが、その声を聞いて、肩が震えてしまう。ダメだ、ここで止まってたら捕まっちゃう。そう思い、レイジュ様に頭を下げて、また走り出そうとしたとき。


「こっち!」
「わっ」


突然レイジュ様に腕を引っ張られ、私は彼女の部屋へと入ってしまう。そしてレイジュ様本人は部屋に入ることなく、そのままパタンとドアは閉められてしまって。彼女の部屋に一人、立ち尽くす私はレイジュ様が閉めた扉を唖然と見つめる。


「レイジュ、今ナマエが入っただろ」
「!!」


しかし、ドアの向こうからはニジ様の声が聞こえてきて。走ったことにより、早まっていた鼓動はバクバクと更に暴れだす。そして、イチジ様の事で頭がいっぱいだったが、今、先ほど無理にキスされてしまったことを思い出してしまい、一気に吐き気がしてきて。


「女同士の大事な話があるから、招いただけよ」


外からレイジュ様のそんな言葉が聞こえてくるものの、気分が悪くなった私は、口元を押さえつつもレイジュ様の部屋の奥にある洗面所へと駆け込む。勝手に使わせてもらうのは失礼だとわかっていても、我慢なんてすることは出来なく、水道の蛇口を思いきり捻り、水を出す。

──やだ……気持ち悪い、気持ち悪い。早く綺麗にしなきゃ。

バシャバシャと勢い良く出る水に手をコップがわりにして口を何度も、何度も洗う。でも、あの時の感覚が消えるわけでも、キスされた事実が消えるわけでもなくて。気持ち悪さは残ったままで、気がつけば水と一緒に涙までボロボロと溢れ出てきていた。

私が好きなのは、イチジ様だけなのに。何でこんな事に。蛇口を止めて、その場にペタりと座り込み、濡れたままの口をスカートの裾でゴシゴシと力強く擦る。こうすれば、せめてニジ様にキスされた感覚だけでも消えると思ったから。でもそれでも感覚は消えてはくれなかった。


「そんな力強く擦っちゃダメよ」
「レイ、ジュ様」


口元を強く擦っていれば、突然声がして、ゆっくりと顔をあげればそこには部屋の外にいたレイジュ様で。彼女は座り込んでいる私の目線に合わせるようにしゃがみ「可愛い顔が台無しよ」と言いつつ、擦れてヒリヒリと痛む口元を優しく触れてくる。

そんな彼女の優しさに触れたせいか、一瞬止まった涙もまた溢れ出すように出てきてしまって。


「うぅ、……っぅ」
「ニジと何かあったんでしょ?」


レイジュ様の言葉にコクリと頷けば「向こう行きましょ」と私の体を優しく支え立ち上がらせてくれて。そのまま私はレイジュ様に連れられ、部屋のイスに腰をかける。しかし、頭の中はニジ様にキスされてしまったことへの嫌悪感でいっぱい。


「ニジに何されたの?」
「……無理、矢理……キス、されました」
「そう。 婚約者に酷いことするわね」
「っぅ……」


ポロポロと零れてくる涙は止まることなく、私の手やスカートを濡らしていく。それを見たレイジュ様は私にハンカチを差し出してきてくれて。最初は断ったものの、無理に渡され、私はその綺麗なハンカチで涙を拭く。そのハンカチからは良い香りがしてきて、それは私からしてみたら馴染みの香りで、召し使いをしている時に何度も感じたもの。

──私が王女じゃ、なかったらあのままイチジ様と付き合っていられたんだろうか。

そんな考えが頭を過り、また押し潰されそうなほど悲しくなってくる。


「やっぱり好きな人じゃない人にキスされるのは嫌よね」
「え……」


しかしそんな考えもレイジュ様の言葉で一気に吹っ飛び、その言葉に驚いたせいか、涙も止まり、目を見開き彼女を見れば、ふふっといつもの笑みを見せているだけ。その言葉の意味を聞きたい。でも変に聞いたら、イチジ様との事がバレそうで、聞くに聞けない。


「ね? ナマエ」
「ッ、あの……おっしゃっている意味が……」


まるで私から何かを言わせようと目論んでいるように、言ってくるレイジュ様。そんな彼女にバレないように、誤魔化そうとするも私の言葉に繋げるように「わからない?」と聞いてくる。その言い方からして、もうイチジ様との関係がバレているんじゃないかと思ってしまうほどで、私の鼓動はまたバクバクと暴れだす。


「ナマエは隠しているつもりでしょうけど、バレバレよ」
「あ、のッ……」
「あなた、イチジが好きなのよね」
「!!」


レイジュ様の言葉に私は言葉を失い、パクパクと魚のように口だけが動いてしまう。何で、バレてるの。態度に出さないようにしていたし、召し使いの時も今も他の皆がいる前で余計な事話してないのに。


「ナマエって本当にわかりやすいわね」
「ッ、あの……レイジュ様!」
「大丈夫よ、誰にも言ってないから」
「は、……はい」


つい返事をしてしまったが、これじゃあもう肯定しているようなもの。でもきっとレイジュ様は"違う"と否定しても聞く耳持たない気がした。それに黙ってくれるみたいだからいいかな。と自己解決した私はレイジュ様にひとつだけ質問をした。


「あの、いつから気が付いてたんですか?」
「随分前よ。 そうね、具体的にはイチジが他の王女にとられてナマエが嫉妬している時かしら」
「あ、あの時からですか……」


可笑しそうに笑っているレイジュ様に私は心の中でため息を溢す。それって、丁度私がイチジ様に対しての気持ちに気がついた時だ。そんな前から気がつかれていたなんて。でも私とイチジ様の関係は知らないんだろうか。しかし、そんな事は聞けるはずもなくて。

そして気がつけば、悲しい気持ちは少しだけ和らいでいた。

(2018/06/11)