堕ちゆく天使 | ナノ

24

「ナマエ」
「は、はい……」


背中からはヒヤリと冷たい感覚が来て、全身がゾクリとする。それは冷たい通路のコンクリートの壁だけではなく、今目の前にいながらニヤリと口角をあげているニジ様のせいもあるのかもしれない。

数分前、少し外を散歩でもしようかと部屋を出て歩いていたところニジ様に遭遇してしまったのだ。部屋で大人しくしていれば良かった、と思っても時すでに遅く。


「あ、の……」


私の名前を呼んでから、何も言ってこないニジ様は私の顎に手を添えたかと思えば、無理矢理自分の方へと顔を向けさせ。ゆっくりと顔が近づいているのがわかった。


「や、……やめて下、さい」


キスされそうな程近くになったとき、もう何をされるかわかった私は小さな抵抗を見せる。こんな事を言えばまた前のようにされるかもしれない。痛いし、怖いのは嫌だ。そう思うもイチジ様以外の人にキスをされるのは、何よりも嫌だった為、勝手に言葉が出ていた。


「は? 何言ってんだ? まだイチジの女気取りか?」
「ッいや、……違います」


フッと鼻で笑うニジ様。女気取りなんて思っちゃいない。それにイチジ様の恋人どうかすらも怪しい今の状態だけど、でも、自分のこの気持ちには嘘はつけない。つきたくない。


「なら、抵抗すんな」
「やめ、……ッ!!」


だから、近づいてくるニジ様を拒もうと必死に体を押し返したのに。

自分の唇にイチジ様とは違う唇が重なったのを感じた。


「んッ!!」


抵抗していた私の腕を壁に押さえつけ、ニジ様の唇が無理矢理重なり、そのまま頑なに閉じていた口を彼の舌がこじ開けようとして来る。相手はニジ様。大好きなイチジ様ではない。好きな人じゃない人だと思えば思うほど、嫌悪感が強くなっていき、視界が霞んでくる。そのまま目をギュッと閉じれば、涙は頬を伝い、零れた。

この時、ほんの少し我慢すればすぐに終わるかもしれない、と一瞬だけ思ったものの、口の中に舌が乱暴に入ってきて。


──気持ち悪い。気持ち悪い。


その言葉だけが私の頭の中をぐるぐると駆け巡る。


そして耐えられなくなった私は、自分の中でかき回すように動く舌を思いきり、噛んだ。


「ッてぇ!!」
「はぁ、はぁ……」


噛みつかれたニジ様は直ぐ様私から顔を離し、口を拭えば端には少しだけ血がついていた。それを見てきっと怒らせてしまっただろう、そう思うもキスをされるよりマシだと思ってしまう。やっぱり私はイチジ様が好きなんだ、と悠長に気持ちを再確認するも、目の前のニジ様の口角は下がっていて、すぐに怒っているとわかった。


「テメェ」
「……」
「あぁ、そうか。 昨日イチジの部屋から出てきたのは、まだあいつの女気取りしてるから行って、追い出されたってオチか」
「ッ……」


口を乱暴に腕で拭う私を見ながら、昨夜の事を思い出したのか口に出してきて、可笑しそうにケラケラ笑っている。確かに追い出された、でも違う。イチジ様から来るように言われたんだ。だから私は独りよがりな行動はしていない。そう思いたいのに、何故か涙がぼろぼろと溢れてきて止まってくれない。


「ったく、威勢が良いと思えば泣くとかめんどくせー……なッ!!」
「ッう"!!!」


泣き出した行動にため息をついたかと思えば、壁に寄りかかっている私の腹部目掛けて蹴り込んできて。その強さは以前、暴行を受けたときに知っている。だから強さに関しては驚かなかったものの、腹部を蹴り込まれたせいか意識が少しだけ飛びかけた。しかし、全身に力を入れながら痛みに耐えていれば、その足はゆっくりと離れていく。


「んー、後での事を考えるとアザ作らねぇようにしねぇとな」


足を戻し、うーんと考え込むニジ様。言っている意味はわかるけど、そんな事は絶対に嫌だ。……逃げなきゃ。そう直感した私は一人で考えているニジ様の隙をついて、慌てて走り出した。

だが、余裕の様子で私が逃げた後を歩いてくるニジ様。彼なら私なんかすぐに捕まえられる。わかっていても、逃げなきゃと思ってしまう。





そのまま私は薄暗い食料倉庫へと逃げ込んだ。ここは以前イチジ様にキスされた場所。もしかしたら、またイチジ様がここに来て、キスしてくれるんじゃないか。なんて考えても今は絶対にあり得ないこと。倉庫はイチジ様との思い出があるせいかまた泣いてしまいそうな程の悲しみとニジ様に対しての恐怖にかられながら、倉庫にある棚の影にしゃがみ、隠れる。


「おーい、ナマエいるんだろ」


ギィィと錆びた音をたてながら倉庫の扉が開き、倉庫内に少し明かりが入ってくる。私は物音を立てないよう、声を潜め、膝を抱えて体を限界まで小さくする。



「こんな汚ねー場所入りやがって」
「そんなところで何をしているニジ」
「イチジか。……いや、ちょっとな。 全く威勢の良い女だよ」
「!!」


ニジ様だけだと思っていたのに。絶対にいるはずないと思っていたのに、大好きな声が聞こえてきた瞬間私の鼓動はトクンと波打った。

──何でイチジ様がここに。滅多にこの通りは通らないハズなのに。


「ふっ、手懐けるのに手こずっているようだな」
「イチジになら大人しくなったりしてな」
「……何の話だ」
「いや、別に。 ……まぁいいや。 とにかく……おい、ナマエ。 早く出てこい」
「……」


イチジ様がいるとわかった途端、バクバクと鼓動が早くなる。でも今出ていけるわけもないし、それに昨夜の事があってから朝食の時会ったけど、イチジ様の顔すら見れていないのにどんな顔して会えば良いのか分からないよ。締め付けられるような気持ちに苦しみながら、二人の会話を聞いていれば「どけ、ニジ」という声が聞こえてきて、私の鼓動はまた波打った。


その言葉の直後、カツカツと聞こえてくる足音。バクバクと早まる鼓動を感じながらバレないように、顔を伏せ、体を小さくしていると横で足音が止まり、ゆっくりと顔を上げて見てみればそれはイチジ様の靴で。

そのまま顔を上げてみれば、イチジ様が私を見下ろしていて、その瞬間また更に鼓動が早まったのと同時に昨夜の突き放された記憶が鮮明に蘇り、鼻がツンッと痛くなってくる。


「来い。 手間かけるな」


それだけ言って、私の腕を掴み、無理矢理立たせてくるイチジ様。そんな彼の顔を見ることが出来ず、また俯いてしまう。しかし、私の事を気にしていないのかイチジ様はニジ様がいる出入り口へと歩き出し、私は足元を見ながら手を引かれ、逆らう事なく歩き出すも掴まれている強さに少し違和感を感じた。

先ほどニジ様に掴まれたような強さや痛みはなく、その骨ばった手は優しく掴んでいて。その腕を掴む優しさは今までに感じた優しさと同じだと思えてしまい、また涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。

何でさりげなく優しくするの。分からなくなってきちゃうよ。私どうしたらいいの。イチジ様は何を考えているの?


「何で、イチジには噛みつかねぇんだよ」
「……」


しかしニジ様のところへつけば、私を当然のように渡そうとするイチジ様。その様子を見て、また頭の中は混乱してきてしまう。

混乱している私の頭はまた、悲しい考えをしてしまい"見捨てられた"と思い、イチジ様の掴む手が離れた瞬間、二人から逃げ出すようにまた走り出した。

(2018/06/04)