堕ちゆく天使 | ナノ

18

その日の夜。私は以前のようにまたイチジ様に呼び出され、今、彼の部屋の前にいる。イチジ様の部屋に入るのはいつぶりだろうか。そんなに時間が経ってないはずなのに、好きだという気持ちのせいもあってか、鼓動が激しく動き出す。

深呼吸をしつつも、二回ノックをして「ナマエです」と名乗った。


「入れ」


この言葉を聞くのも久しぶりで、ゆっくりと胸が高ぶってくる。ドアノブに手をかけて開ければ、ふわりと優しい風が吹き抜けて、中は、初めてイチジ様の部屋に来たときと同じで、明かりが付いていなく、バルコニーからは月明かりが差し込んでいた。

ソファに座っていたイチジ様は私が入ってくるなり立ち上がり、こちらへ向かって歩いてきて。イチジ様が近づいてくるだけでも、ドキドキして体が火照ってきてしまう。


「あのッ、イチジ様……」
「なんだ」
「先日、聞くつもりはなかったのですが……聞こえてきてしまって。 申し訳ありません」


私の前まで来たイチジ様は、返事をしつつも私をそっと抱きしめる。それによってイチジ様と王女様の会話、その後、廊下で会ってしまった事を思いだし慌てて謝るもイチジ様から来た言葉は想像していたものとは違った。


「なんの話だ」
「え、あの……王女様が泣きながら部屋を飛び出していったときです」
「……あの時の事か」


抱きしめられながらも、イチジ様の顔を見上げてみればやはりいつもの無表情で。彼の言葉を聞く限りではどうやら覚えてなかったらしい。王女様とのやりとりを忘れていたのか、はたまた私がいたことを忘れていたのか。何れにせよ、イチジ様の中ではその程度の事だったのかもしれない。

そしてイチジ様は、もうその話をするつもりは無いのか、私にキスをしてくる。最初は触れるだけのキスで、次第に啄むキスへと変わっていく。それは最初の頃と変わらない。

変わったのは、私の気持ち。

イチジ様は私の唇から離れ、私を抱き上げそのままふかふかのベッドへ倒れ込む。倒れ込んだ私は天井越しに見上げれば、イチジ様はサングラスを外した状態で見下ろしてくる。今、この状態になって私はやっぱりイチジ様が好きなんだと、この時だけ見てくれればいい。と素直に思い、自然と言葉が出ていた。


「あの、一つだけイチジ様に伝えたいことがあるのですが、聞いてくださいますか?」


ゆっくりとイチジ様の様子を確認するように言えば、表情を変えることなく「……何だ」と返ってきて。


「私……今こうしてる時間が幸せです」
「……」
「いくらイチジ様が私の事をおもちゃだと思っていても私を求めてくれることが嬉しいんです」


自分の気持ちを伝えるべく、言葉を選びながらもイチジ様に言った直後、何故か彼の表情が少しだけ歪み、眉間にシワが寄った。それを見た瞬間、私は何か言ってはいけない事を言ってしまったんだろうか。もしかしたら私のこの気持ち自体が迷惑だっただろうか。もし後者だったらと考えると胸が痛い。

しかし、イチジ様から出てきた言葉は思っていたものとは全く違った。


「おれは、最初からお前をおもちゃだと思ったことはない」
「え」


おもちゃだと思ったことない? 一瞬、聞き間違えかと思った。でも確かに今、イチジ様から出た言葉。こんなに近くにいて聞き間違えるはずがない。しかし以前、ニジ様達の前で「この女は今日からおれのおもちゃにする」と言っていたのをハッキリと覚えている。あの時の言葉はニジ様達から助けるためとか?

少しばかり混乱しながら、自分の都合の良いように考えてしまっていれば、彼はそんな私を見下ろしながらも言葉を続ける。


「ただ、お前がとても欲しいと思うんだ」
「ほ、欲しい……。 あのっ、それって……す、好き、って……意味、ですか?」


混乱したままつい出てしまった"好き"という単語。しかし冷静になって考えてみれば、イチジ様が使用人の私に恋愛感情を持つとは思えなくて。言ってはいけない事を言ってしまったと後悔する。


「ッ、違いますよね! 申し訳ありません!!!」
「好きとはどんな感じなんだ」
「!!」


慌てて謝るも、そんな事は気にすることなく私に聞いてくるイチジ様。"好き"とは。そう聞かれてしまうと上手く説明出来るかわからない。しかし聞かれたからには説明しないわけにもいかず、私は自分の感覚を思い出しながらも口を開いた。


「私はですが、イチジ様と一緒にいれるだけで心が暖かくなって、触れてもらえるだけで嬉しくて、それでいて安心できて。 でも他の女性がイチジ様と話しているところを見ると胸が苦しくなって、悲しくて」


今までの事を思い返しながら説明し、そして最近あった王女様の事を思い出せば、胸が苦しくなる。今、思い出してもあの時の様子はズキンと心が痛み辛くなってしまう。たとえイチジ様は興味なかったとしても。


「お前はあの王女とおれが一緒にいるのを見て悲しくなったのか」
「!!……はい。 私がそんな事を思う立場ではないことはわかっています」


そう、わかっている。使用人の私がイチジ様に対してそう思うのは筋違いだと。だからもし、突き放されてもいい。しかし、イチジ様はまた私の思っていた言葉とは全く違う事を言い出して。


「そうか……何となくわかった」
「……あの、何を」
「今のこのよくわからない感情の事だ」
「え……それって」


突然自分の感情の事を言うイチジ様。どうやら自分でわからない不思議な感情があったようで、私の説明でその気持ちが何なのか理解したようだ。

そしてイチジ様は、私の言葉を待つことなく首筋に顔を埋めてくる。それによって、彼の髪の毛と吐息が首筋にかかりくすぐったい。


「ッん」


自然と体が反応してしまい、声も漏れてしまう。しかしそんな私をきにする事なくイチジ様はそのまま、私の耳に近づいて。



おれはお前が好きみたいだ。

おれの女になれ。



耳元で囁かれ、全身が溶けそうになった。一番聞きたくて、絶対に聞けないと思っていた言葉。その言葉が嬉しくて嬉しくて、気がつけば一粒の涙が零れ落ちていて。

そしてこの後、イチジ様に体の隅々まで愛された。

(2018/03/29)