閉じた視界の中にタタンタタンと不規則な音。
静雄自身、なぜ自分がこんな場所にいるのかという理由が分からないままでいた。
―応援歌―/3
左から右へ流れていく景色。ラッシュの時間は過ぎたのか、それとも需要がないだけなのか、あるいはその両方か。つまり車両の中にあまり人はいない。
あの後、臨也は静雄の手を無理やりにひいて、駅に向かった。二人が一緒に歩いている、しかも静雄が何の抵抗もしていないことにすれ違う通行人は目を見張っていた。
確かに今までは絶対にありえなかったし、今でもあのときの自分はどうかしていたんだと思う。
今隣りに座り、窓の外を眺めている臨也は、いつもとどこか、大きく違っている。
時折こちらに向ける目は、優しげに笑っていて、口調もどこと泣く自分を気遣うような、そんな違いが静雄には気味が悪かった。
揺れる車内、行き先は聞いていないしおそらく臨也本人も知らないのだろう。適当に乗り換えて適当な電車に乗って、かれこれ一時間だろうか。
もうここが都内なのかも分からない。流れていく風景は秒を刻むごとに殺風景になっていく。コンクリートの樹海なんて見る影もない。
「のどかだねえ」
臨也は振り向いた。答えるべきかと口を開き、返事を探す静雄だが、臨也は構わず喋り続けた。
「周り見なよ、俺たちを知っている人間なんて殆どいない。それだけで別の世界みたいに思えるでしょ?」
普通の人間ならそんなのは当たり前のことだと言ってのけるだろうが、生憎自分達が普通ではない。
街では静雄と臨也のことを知らない人間のほうが少ないし、気味が悪いほどに知れ渡っている自分の名が、静雄にとってのその普通を麻痺させていた。
しかし、池袋から離れ周囲を見ても、数人だけの乗客たちはこちらに関心など寄せていない。いや、自分達の格好が珍しいことに何度か目を向けられてはいたが。
言われてみれば別の世界と思えるかもしれない。普段聞いている喧騒などここでは吸い込まれてしまう。それほどに静かな場所だった。
何でこんなところに自分がいるんだろう。臨也のせいに変わりなくとも、環境の違う今の状態が不思議でならない。
目を閉じると線路の上を駆けていく車両独特の揺れ。時折大きく揺れて少し体が浮くような感覚。隣の男への苛立たしさも忘れてしまいそうなほど心地いい。
しばらくそのリズムに身を任せていると、停車したのだろうか、一方に身体が引き寄せられる。
横に倒れそうになった自分を受け止めた腕。目を開けば、酷く整った天敵の顔。
「大丈夫?」
本心からそう言っているような表情に、「別に」とそっけなく返し座席に座りなおした。
二、三人いた乗客は皆この駅で出て行ってしまった。臨也を見ても降りようとする気配もなく、静雄は黙って座ったまま、自分の足元を見ていた。
間も無く動き始めた電車。窓の外の風景はゆっくりと加速して、進行方向とは逆に流れていく。
緑が多いな、とかあれは田んぼだろうか、とか何でもないようなことを考え続けて、次第に自分が何か考えているのかどうかもくだらなく思えてきた。
頭を空っぽにして小さく深呼吸した。瞼が重くなってきて、さっきまで寝ていたのになと静雄はまた息を吸った。
昔から、バスや静かな電車に乗るとよく眠っていた気がする。そのたびに幽に起こしてもらったり、乗り過ごしていた思い出があった。
最近は池袋で心休まる場所など無くて、電車でも席が空いていることすらあまり無かったかもしれない。
車内の揺れる音は、子守唄みたいだ。隣りに臨也がいることも忘れて、瞼を閉じた。
ふと、唇に何かが触れる。
顔に当たっていた外からの光が一瞬遮られたかと思うと、頬に手を添えられているのか、それにしては冷たい感触が当てられる。
薄目を開くと自分の顔からそれが離れていく途中だった。小さくその黒い前髪が揺れる。
何が起きたかなど、小学生でも分かるかもしれない。だが、その理由など見当も付かない。
何で自分が、臨也に。自分に、何故こんな。頭を巡り、離れようとしない疑問符。
とっさに眼を瞑って、眠っているフリをした。悟られてはいけないと、動揺を隠した中で判断した。
折原臨也に、キスされたなんて。
何で今、そんなことが起きた?先程まで落ち着いていた鼓動が忙しなく鳴っている。
自分が慌てていることを自覚した上で、揺れる車両の中で声など出そうともせず静雄は「原因」を模索した。
ありえない、ありえない。原因など、そんなものは存在するはずが無いのだから。
閉じた視界は真っ暗で、余計なことなど考えられそうも無い。また自分への嫌がらせか何かなのだろうか。
それにしては何も言ってこない。聞こえるのは線路を跳ねるこの車両という入れ物と、うるさい心臓の張り裂けるような鼓動だけだ。
あれだけ饒舌な臨也も、静雄が寝ていれば流石に何も言ってこない。その静けさが逆に不気味で、自然と静雄は両手を固く握っていた。
じんわりと汗が染みる手。今日数回握られた手。すぐ横には、先程自分の頬に触れたであろう冷たい手。
自分は一体何をされているんだ。
胸に刺さった大きな棘は、深く穿たれた杭のように当分抜けそうに無かった。
いつになったら起きれば良いのだろうかと、漏らした息は相手には聞こえない。
(続)