目を覚ましたとき、最初に感じたのは薄くとも暖かなシーツの温もり。
瞼を開くと、いつもの静雄の部屋。だが、唯一違ったところが、一点だけ。
「起きたの?」
―応援歌―/2
何故自分の家に大嫌いな天敵がいるのだろう。一瞬動揺して、静雄は慌てて上半身を起こした。
サングラスはすぐ近くに置かれていた。そのほかに部屋の中の所有物のことで変わったことはない。
窓から差し込む光で、朝になっていると分かった。あのまま眠ってしまったのだ。
相も変わらずへらへらこちらを眺めている臨也を見て、眠りにつく前の記憶を頭の隅から手繰り寄せる。休暇をとり、家で一人いじけていた。そこに現れたのが、折原臨也だ。
覚えている限りでは、静雄は普段の自分ではありえないほどに、この男に甘えていた。苛立ちや嫌悪よりも先に、果てしないくらいの羞恥が込み上がってきて臨也の顔を直視出来なかった。
あの時は、自分があまりに弱っていたから、混乱していただけだ。そう言い聞かせ、焦りを払拭しようとした。
「君の家、本当に何も無いね。有り合わせだけど飲む?」
そう言って臨也が差し出したのは、マグカップに注がれたホットミルク。まさか勝手に物を漁ったのか。別に見られて困るものなど置いていないが、それはそれでいい気はしない。
それでも別段毒が入っているようにも見えないし、不審に思いながらも静雄はそれを受け取って、一口啜った。
口の中に、仄かに甘い温か味が広がる。思わず「・・・美味い」という言葉を口に出してしまった。目線だけ動かして臨也の様子を見ると、何処までも食えない表情で静雄を見ている。
まるで、そうか良かったと声に出しているようだ。静雄はまたカップの中身に目を移した。
「・・見るなよ」
正直、見られていると落ちついて飲めやしない。まじまじと見つめられればやはり鬱陶しい。
臨也はうん、と返事をしたにもかかわらず、静雄の傍から一向に離れようとしない。
「何か企んでんのか」
「そう思う?」
「そうじゃねえお前なんて見たことねえ」
信用無いなあとケタケタ笑う臨也。この男を信用するなど、自分から陥れてくださいと懇願するのと同じことだ。
自分が飲んでいるミルクに毒が入っていないことは分かったが、どうせ善意のものではないのだろう。
追い出したほうが良いのだろうか、だが遅すぎた気もする。あんな姿を見られて、放っておけば何をするかも分からない。
ちびちびと温くなってきたミルクを含んでは嚥下する。徐々に減っていく液体と、正反対の色をした目の前の男。
そうだ、信用してはいけない。本当ならすぐにでも殴りつけてやるべきだった相手。ついペースを乱されてしまったが、懐に入り込む前に真っ先に駆除すべき害虫なのだ。
ところが、臨也は静雄の考えを覆すようなことを口にした。
「別に、信用してくれなくていいよ」
思わず顔をあげた。嘘と卑怯の塊みたいな男が言うと、何故かおかしく聞こえる。
「昨日俺が言った言葉も、君が泣いたことも、無かったことにすればいい」
静雄は泣いた。昨日、責任から逃れたいが為に、この男の腕の中で。
臨也は言った。昨日、静雄の心を揺さぶるように、優しさに似せた言葉で。
どういうつもりだ。ポーカーフェイスのまま臨也はハンカチを取り出して、静雄のミルクが付着して白くなった口元を拭った。
「子供みたいなことするねぇ、ひげみたいになってる」
言われてカッと顔が熱くなった。「自分でやる」とハンカチを奪い取り、恥を紛わせようと何度も擦った。
「・・・お前、さっきから気持ち悪い」
唐突な言葉に少しだけ驚いた臨也。どういう意味、と尋ねてくる様子は、およそ情報屋には似つかわしくないものだった。
「嫌いな俺に、何でこんな事ばっかするんだよ」
慰められてるみたいで、気持ち悪い。殴るにも殴れない。静雄の言葉に、臨也は苦笑するだけだった。
静雄の手に包まれたカップの少ない中身は、中途半端に冷たくなった。
何かをはぐらかすみたいに、臨也は笑う。
「折角休み貰ったんでしょ?だったら何処かに行こうよ」
「は?」
どうしてそんな提案が出たのか。意味が分からず間の抜けた声を出してしまう。
冗談じゃない、誰がお前なんかと。冷えた液を一気に飲み干して、静雄は立ち上がった。
蛇口の水でマグカップを濯ぐ音だけが聞こえる。いつも黙れと言っても止まることを知らないほど饒舌な口がだんまりとしている。
かと思えば生活感の無い部屋をうろつき始め、静雄に向かって「適当に電車を乗り継いでさ、誰も知らないようなところに行こうよ」と空想の旅行プランを述べたりする臨也。
本当にあれは折原臨也なのか?静雄が自分の知っている彼とあの男を照らし合わせても、合致する点があまりない。
「休日に家で寝てるだけって、シズちゃんまだ若いのに、何かやることないの?」
背後に立って父親に遊びに連れて行くようせがむ子供みたいに揶揄する臨也。流石に苛立って、静雄は振り向いた。
「だから何で・・・っ」
言いかけた途端に臨也は静雄の手を引いた。
床に落としてしまったマグカップは、ゴトリと鈍い音を立てただけで幸い割れることは無かった。だが臨也は歩き出す。昨日のように強引に。
「何がしたいんだよ、お前・・・!」
静雄は、止まることはしなかった。本当に嫌だと思えば、手を振り解くことは昨日のように出来たはずだ。
だというのに、何故かなんて分からないのに問いかけた。
「別に何も。ただ・・・」
いきなりくるりと体を向け、臨也は続けた。
「忘れにいこうよ、君の嫌な出来事を」
あっけらかんと告げ、その手を引いて臨也は玄関へ向かった。
本当にこれで良いのだろうか。
自分は今、流されている。分かっていながらも静雄はまだ、その手を振り解くことは出来なかった。
(続)