一筋の透明な雫が、静雄の頬を走った。


それをこちらに見せないように、ただ俯いて彼は踵を返し、この部屋を去っていった。





―泣きたいのは、こっちだ。―





原因は些細なことだ。小さなことに互いの歯車にリズムは噛み合わなくなって、気がつけば口論になった。


静雄が激した感情の中で、口を噤んで大人しくしているはずもない。二言三言、言葉を交わしただけで、奴は暴力に走った。


普段池袋で始まる派手なものではない。それこそ、子供が癇癪を起こすような、部屋の中の物を狭い空間で投げつけてきたり、やたら拳を振って臨也に当たったり、どれもその破壊力を除けば幼稚な攻撃だ。


臨也自身、その時は怒りで頭に血が上り、落ち着きなど持ってはいなかったのかもしれない。


飛んでくる全てをかわすだけで、既に精一杯だった。冷静な判断を下すことも、相手へ反論する余裕を見せることも出来るはずがない。


喧嘩の原因だって、どちらが悪いかだって、思い返してみればくだらない結論に辿り着く。


だというのに、その状況で「相手への思いやり」だの、甘いことは言ってられなかった。破壊される仕事道具のノートパソコン、割られる窓、下手をすれば殺されるかもしれない降り止まぬ暴力。


だから何気なく、弾みで口をついたのだ。



「君のそういうところが大嫌いなんだよ」



ぴしゃりと言い放った言葉が耳に届いたのか、静雄は途端にその動きを止めた。まるで心臓の鼓動も止まったかのように。


息をすることも、肩を揺らすのも、一つ一つの動作がぎこちなく、臨也は静雄の顔を見た。


金の髪で少し隠れたその目は、気のせいか少し暗い光を灯していた。


唇を固く結んで、何も発そうとしないその口。


ゆっくりと、振るおうとしていた腕を下ろす様子がひたすらスローモーションで、酷く時の流れが遅く思えた。


睨みつけるようにこちらを捉えた瞳から、熱が弾けた。


立て続けに溢れ出る、その涙と呼べる液の道に、臨也は何かを言うことが出来なかった。




「俺だって、泣きたいよ・・」


まるで廃墟のようなその部屋で、臨也は静雄の拳の減り込んだ跡がいくつもある壁に、もたれかかって独りごちた。


てっきり、あのまま殴られるのかと思った。


気がつけば、八年だ。出逢った時から静雄に対し、いつも人間に抱いている感情とは違う、何かを感じていた。


それから自分の彼への想いが恋慕の情だと気付き、向こうからこちらを見てくれるようにアプローチを仕掛けた。結果、計算違いも度々あったが、思い通りに静雄は晴れて自分のものになった。


そして、表面上嫌い合っても、自分達は確かに愛し合っていたのだと思う。


だというのに、相手へのこの思いは冷めやらずだというのに、どうしてこうなってしまったのか。


所詮、他人と他人が片寄せていただけで、永遠に結びついていられるなど、儚い幻想だったというのか。


今まであんな顔は、一度も見たことはなかった。


あれは自分の知らない静雄であった。あんなに頼りなさ気で、情けない顔をして、逃げるように臨也の家から出て行った彼は、自分は見たことはない。


――――いや、本当はあの時から、知っていたのかもしれない。


初めて口付けたときも、そういえばあんな、戸惑うような悲しむような、望みの絶えた表情をしていたかもしれない。


人々は、静雄を買い被っていたのだろうか。本当は、皆が言うほど静雄が強くないこと。


静雄が涙を流したのに、それを誰かが拭ってやったか?慰めて、抱き締めてやったのか?


自分が折れるべきだった、ようやく理解しても、ここにもう静雄はいない。


臨也は立ち上がった。思い立ったように。


今日は、自分が泣いたことにしよう、そして、静雄が自分に謝りに来たことにしよう。


プライドなんて気にしているようでは、繋ぎ止められるものも繋ぎ止められない。


あくまで、これは慈悲の心でも、深い愛情からきたものではない。


纏わりつくような執着は、静雄から離れない、それだけのことだ。


例えば、今日の内に静雄が泣き止むようなことがあったとして、それはただの風の悪戯だ。


だから、慰めるとか、甘いことは考えていない。


静雄の弱さを放置するなど、考えただけで自分が泣きたくなる、それだけだ。


ましてや、あの顔を見せられては、


「シズちゃんのくせに」


開いた扉の向こうには、闇を照らす新宿の光しか存在しなかった。


吹き荒ぶ冬の風は、張り詰めた外の空気を冷たく揺らして。


さあ、慰めに来させてやるよ、俺の涙を拭いに来い。


歩み始めたこの足は、どこへ向かえば良いのやら。





―泣きたいのは、こっちだ。―





張れない意地なら、剥がしてしまえ。


剥き出しの君の本性は、強者か、それとも。







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