「シズちゃんの、バ――――――――――カ!!」
吐き出された気持ちに対し、俺のこめかみから血管のブチ切れる音が聞こえた。
「んの・・・、ノミ蟲がああ!!!」
窓から校庭へ飛び出して、そういえば俺、出席日数大丈夫なのかな、同時に思い出した。
目の前で俺を挑発しながら駆けて行く真っ黒い学ラン姿は、可笑しそうにへらへら笑いながら、池袋の町へと溶け込んでいく。
俺もその背中を追うように、どよめく背景となった人々の中へ、自ら潜っていった。
どうして、こんなヤツに関わってしまったんだろう。
間章 -ぼくたちが、恋していく。-
池袋の大通りでは、いつもの俺たちの喧嘩と思って、指示も無いのに道が開く。
人込みの中には、こちら、主に俺に対してだろう、畏怖した眼差しを向ける者もいれば、好奇心から携帯電話で写真を撮り出す者もいる。
そんな野次馬根性丸出しの奴らを軽くぶん殴ってやりたい気持ちも山々だが、まずはあの天敵のほうが先だ。
この場所ではあまりに目立つ。最早日常と化してしまった自分たちの関係は、例え自身が無意識に生み出してしまったものだとしても、修復なんて不可能のように見える。
というか、今更アイツと仲良く、なんて出来るはずないし、そんな気も毛頭ない。
池袋で長い俺も普段近寄らないような見慣れない通りに入ると、ヤツは一度こっちを振り向いて、心底吐き気のする意地の悪そうな笑みを浮かべた。
臨也は車道へ飛び出し、道路を走る車に飛び乗った。それに驚いた観衆がざわめく。
俺も呆気にとられ、流石に立ち止まった。馬鹿かアイツ?しかし猿のような身のこなしが遠ざかっていくのに、今更諦める気こそ起きなかった。
今日という今日はミンチにしてやる、そう思い、俺は躊躇わず、地面を踏み込み車道を走る車へと飛び乗った。
臨也は何かのゲームのように軽々と車から車へ渡っていく。次々とブレーキをかけるその足跡は危うく接触事故を起こしそうになるが、申し訳ないと思いながらも土台にさせてもらう。
そのまま反対側の歩道へ移ったヤツはちら、とこちらを見遣る。同じように車を踏み台にする俺に、一瞬キョトンとしたように見えたが、爬虫類のような笑みをまた浮かべ、
「シズちゃん、こっちだよ!」
ぶんぶんと子供のように大きく手を振って、ビルとビルの間の狭い小路に逃げ込んだ。
臨也は、こうなることが必然だったかのように笑みを絶やさず逃げていく。ふざけんな、俺は内心で小さく舌打ちした。
埃っぽく、かび臭い道を通ると、先ほどの道が嘘のように、がらりと人気の無い通りに繋がっていた。この道へ逃げ込んだのは本当に偶然なのだろうか。
臨也は目の前にそびえる廃ビルの非常階段を上がっていった。カンカンカン、錆びた足元から嫌に高く聞こえる音。それはヤツの笑い声にも似ていた。
自分とヤツの距離が大分縮まっていく。おそらく獲物を見つけた捕食者も、こんな気持ちなのだろう。
ただ、ノミ蟲に近付けば近付くほど、アレルギーの症状のように気色悪さと苛立ちが合わさって、ヤツを仕留められるという心の昂ぶりも若干萎えてしまう。
俺は三段飛ばしで階段を駆け上がっていく。ヤツの足跡は極力踏まないように。
「臨也ぁ!!」
臨也は、俺の声に振り向きもせず非常階段からの入り口を長い足で蹴り飛ばした。
鈍い音に、いつも自分がやっている行為を思い出したが、臨也と同じというだけで反吐が出ると棚に上げ、俺は勢いをつけて踊り場まで「飛んだ」。
普通の人間だったなら足の痺れに耐えられないか、悪くて脱臼という具合の飛距離だが、そんなもの望まないこの力には関係ない。
臨也の破壊したドアは、無残にもその場で横たわるように倒れ、放置されていた。俺が引っこ抜いて使用した後の道路標識やガードレールもこんなものなんだろうか。
足を踏み入れると、鶯式の床みたいにぎし、と軋む足元。ビルの内部はこんな感じだったのか、と今更な感想を思う。
その時、奥で忌々しい臨也の駆ける音が聞こえたのにハッとする。そうだ、本来の目的はノミ蟲の駆除なのだから。
俺がその方向に走り出したとき、臨也は突然、俺の視界から消えた。
その先に曲がり角があったのだ、と認識したのは俺が先ほどの臨也のいた場所に辿り着いた後。
大した数の無い低い階段は、このビルの高さからして屋上にでも繋がっているのだろうか。
埃っぽい階段を一段一段上がっていく。鼻を突くのは錆び付いた壁の臭い。
ノミ蟲の通ったであろう出口を蹴飛ばそうと軸足に力を込めたが、違和感があった。
鍵が、開いている。
挑発のつもりか、はたまた何かの作戦か。怪しいことに変わりはないが、俺は訝しげにノブを回した。
開いたドアの先にあったものは、真っ白な世界でも暗いトンネルのような闇でもなく、かといって澄み切った青があるわけでもなかった。
夏の暮れの、紫がかった景色に、池袋の町のネオンはまだ光を見せていない。
刺すような冷たい空気はまさに夜のもの。しかし完全な夜は、季節としてやや遅れ気味のようだ。
日はまだ沈みそうも無い。人通りの無いこの通りには、まだ客なんて現れないからなのだろうか。
憂鬱な色をしいた世界の中には、ポツリと一点だけに、完全な「黒」が待ちわびたように立っていた。
その姿に、俺の機嫌は急激に下降した。
「今日という今日は手前を地獄に送ってやるぜ、臨也君よぉ・・!」
ゴキリ、と関節を鳴らし、ありったけの殺意をもって臨也を睨み、一歩一歩コンクリートの大地を踏みしめるようにヤツに近寄っていく。
「あはは、待ってたよシズちゃん」
臨也は道化のように笑みを浮かべ、赤い瞳を揺らす。
「俺に殺される日をか?」
戯れ程度に言葉を返してやると、それでも臨也は楽しげに否定した。
「違う違う、実は今日、君に言わなければいけないことがあってねえ」
向こう側から闇が迫ってくるかのように、日はどんどん落ちていく。相変わらず人を馬鹿にしたような笑みを浮かべているんであろうが、暗くて表情が読み取り辛かった。
要らないことまで余計に喋る、幼馴染に似た性質の口が一体なんだというのか。
「もうすぐ、俺は日本を離れるんだ」
思考が、一瞬停止した。
そりゃよかった、とかそんな返事をしたつもりだ。
どうした、今コイツは日本を離れると言ったんだ、喜ばしいことだろう。俺がずっと、望んでいたことだろう?
無理に浮かべた笑みは歪で、作った声は震えている。
臨也が消えるんだぞ?喜べ、喜べよ俺!
こんなもの、全然笑顔じゃない。
「ところで、ここからが本題なんだけど」
俺は一体、何をそんなに苛立っているのだろう。
俺の動揺は見透かされていないはずだ。臨也は飄々と切り出した。
「俺、そう考えてたらシズちゃんのこと思い出したんだ」
いきなりのその一言に、何を言っているのかよく分からなかったところを、俺の頭の容量をオーバーする勢いで臨也は叫ぶように、怒鳴るように吐き出した。
最初はそりゃ何でって真っ先に疑問を抱いたよ、それから何で自分がシズちゃんにあんなに執着してたのか、今更考えてみたんだ。そして、それらが軽く常軌を逸してる行為ってことに気が付いちゃってね、いつの間にか俺の中には君に対するドロドロした想いが巡っていたんだ。大嫌いな君に関わる気なんて本当はサラサラ無かったはずなのに、君の顔を見ると理由も無くムシャクシャして、無理だと分かっていながらどうしても屈服させたくて、こんな感情を抱かせておいて全く君は何様のつもりなのかなぁ?!
一頻り言い終えると、辺りは一瞬、静まり返ったように感じた。
どういうことだろうか、分からないまま、この胸に溜まった苛立ちが何なのか分からないまま、俺は三回瞬きした。
そんな、こんな。言葉は紡ぎ出せない。
「まだ分からない?」
そんな、これは、これではまるで。
臨也でない臨也は、落ちていく光にどんどん陰っていって、
「―――君が好きだと言っているのだけど?」
息が、止まるかと思った。
何言ってんだ、気持ちわりぃんだよ、またなんか企んでるんだろその手には乗らねーよ。
「なに、言って・・・」
そう言おうとして、最初の一部しか声に出来ない。
「悪かったね、俺のせいで君の青春めちゃくちゃにしちゃって」
遮られた呟き。
嗚呼、行ってしまう。何か、何か殴るなり呼ぶなり何かしなければ。
頭の沸いたような言葉を鵜呑みにした訳ではない。
最悪な関係は、突然こんな最悪の別れで幕を閉じてしまって良いのだろうか。
一瞬、臨也の赤い目が揺らいだのが見えた。
浮かべた笑みが、嘘しか言わないヤツの口を寂しそうに飾っていた。
「バイバイ、シズちゃん」
そんな目で見るな、優しそうに微笑むな。そんな、もう会えないとか。
―――好きだったよ。
擦れ違いざまに囁かれた言の葉は、まるで呪いのようだった。
口よりも先に、体が動いた。
思いっきり、その頬を殴りつけてやるつもりだったのだ。
なのに、気付けば俺の手が、ぶるぶる震えながら臨也の手を取っていて。
「・・シズちゃん?」
キョトンと、珍しく驚いたような表情で俺を見る臨也。
その時、この廃れた通りのネオンが一斉に輝き出した。下品なピンクや、遠くで光る淡いオレンジ。それらの光に照らされた臨也を直視出来なくて、俺は顔を伏せた。
今俺の顔は酷いことになっているのだろう。頬が焼けそうなほどに熱い。
見られたくない、何も言えない。俺はこんなに弱かっただろうか?
何か言われたら本当にヤツの望みどおり死んでしまうだろう。
そんな時、臨也は俺の方に向き合った。反射的に逃げ出したくなったものの、引っ張られるようにして体は引き寄せられ、肩を掴まれる。
本気で振り解こうと思ったら出来るはずなんだ。だというのになんなんだろう、この無力さは。
情けない顔なんだろうなぁ、今の俺は。
顎に手を添えられ、俺の顔は臨也に直視される。
端正な顔は、いつものような卑屈な笑みなど浮かべずに、どこまでも真摯なもので。
その目は、僅かに熱を持っていて、それに対して俺はキュッと目を瞑ることしか出来なかった。
やがて唇に何かが触れた。
臨也にキスをされたんだと気付いたのは、その熱が離れてからだった。
本当に、その間息が止まっていた。
開いてしまった瞳には、生理的な涙が浮かんでいて、情けなくてまた何度か瞬きした。
抱き締められた体はどこまでも暖かく、この男からは考えられないほど暖かく、そして、どこまでも、困ったような笑みを浮かべていた。
「・・・こんなことしたら、離れられなくなっちゃうじゃん」
きつく、強く抱き締められて、まっすぐに目を向けられる。
嬉しそうな笑顔が、俺が目を背けられなかった理由だろう。
「一ヶ月でいい、俺がここにいる間、」
俺の我が儘に付き合ってくれるかな?
一ヶ月なんて言うな、ずっと俺にとっての憎たらしい同級生でいればいいのに。
囁かれた言葉に、胸が痛くて、ノミ蟲に凭れ掛った。
背にまわされた感触は、恐らく一生忘れない。
大嫌いな天敵の温もりを。
――――ぼくたちが、恋していく。