夢のあとさき
73

レティ、と母が呼んだ。
姉さん、と弟が呼んだ。
――レティシア。そう呼んでいたのは、父だけだった。
母が息だえる前、レティ、と私の名前を呼んだのだ。
「レティ……、ロイドと一緒にいてあげてね。あなたは……、ロイドのお姉ちゃんなんだから」
その言葉を覚えている。泣きわめく私とロイドを親父さんは家に連れ帰ってくれた。母を埋葬して、お墓の前で目を閉じて祈って。
親父さんは私の名前をレティだと思ったのだろう。私もずっとそう呼ばれていたのだから否定はしなかった。五歳児なのだ、深く考えていなかったとも言う。
それからずっとレティと名乗っていた私をレティシアと呼ぶ人はいなかった。旅に出て、ユアンに言われて思い出したくらいだ。ディザイアンのデータベースには本名が残っていたのだろう。
クラトスにレティシアと呼ばれたときは妙な気分だった。他の人はレティと呼んでいるのになぜ知っているのかと不思議に思ったのだ。嫌な感じはしなかったので深く考えはしなかった――いや、クラトスの声にその名前は馴染んだのだ。
ずっと前にそう呼ばれていたのだと、思い出させるほどに。
「知ってて……言わなかったのかよ!」
「そうだ。だって、父だと名乗らない人をどう認めればいいんだ?所詮は血のつながった他人に過ぎない」
「血のつながった、他人……」
ロイドが呟く。そしてユアンは嘲笑するように言った。
「実の子どもにここまで否定される気持ちはどんなものだ?」
「……」
クラトスはどこか自嘲するように笑みを浮かべていた。それが気に食わない。剣の柄に手をかける。
「……その様子ではオリジンの解放に同意するつもりはないようだな。それならば……おまえに死んでもらうだけだ!」
天使術を喰らわせたレネゲードたちが立ち上がるのに舌打ちしてしまう。槍を向けられたが……、私は結局剣の柄から手を離した。人質になんて意味はないのだから、むやみに暴れる必要もないだろう。
「刺すなら私を刺せ」
レネゲードに視線を向けると躊躇ったようだったが、私の足に槍が突き刺さるのを感じる。あらかじめ痛覚は遮断しているので痛みはない。
「姉さん!」
「動けば娘の命はないぞ!」
リアクションをしないのはいまいちかと思ったが、ロイドが慌ててくれてるのでいいだろう。私はただクラトスを見つめる。――私に向けられた刃に、動きを止めたように見えたその人を。
「きさまは家族ができて変わったな。十五年前のあのときもアンナを化物に変えられておまえは抵抗の術を失った」
「……何?」
ロイドがぴくりと反応する。私は目を閉じた。
「アンナもおまえについていかなければあのような姿になることもなかった。あわれな女だ」
ユアンが吐き捨てる。あからさまな挑発だった。私は動かなかったが、ロイドはたまらなかったらしい。剣を抜いてユアンに斬りかかる。
「母さんを愚弄するな!」
ああ、素直に怒れるロイドが羨ましいと思う。だがその斬撃は怒りに任せた直線的なもので、ユアンに簡単に躱されてしまう。そしてユアンが魔術を放つのに私はようやくハッとしてロイドをかばおうとした。だが、足は槍で地面に縫い付けられてしまっている。
「ロイドッ!」
叫ぶのと同時にロイドに魔術が降り注ぐはず――だった。だが、影がロイドの前に身を躍らせる。そして魔術を受けて倒れ込んだ。
どさり。
大柄な体が地面に伏せる、その音がやけに重く響く。
「……クラトス?」
「……無事か?……なら、いい」
掠れた声が告げる。足から槍を引っこ抜いた私は、それでも動けなかった。
「……う……うわぁーーーーーー!!」
ロイドの悲痛な叫び声が響いても、どうすればいいか分からなかったのだ。
――クラトスがロイドをかばった。それは、紛れもない事実だ。それが私の中で処理されずにぽっかりと浮かんでいる。どこにも持っていけない感情が。
「ロイド?どしたの!これは一体……」
後ろからコレットの声が聞こえてくる。私は茫然としたままただ倒れた男を見つめていた。
「俺は……俺は何を信じたらいいんだ!?」
「ロイドしっかりして!」
「うそだ!クラトスが……俺たちを裏切ってコレットを苦しめたあいつが……俺の父さん……!?」
ようやく実感としてわいてきたのか、ロイドが苦しげに呻く。そしてコレットだけではない、ゼロスも家から出てきて声をかけているのが聞こえる。
「……こらぁ、ロイド!俺を失望させるなよ!おまえが今まで言ってたことは全部うそっぱちか!立場も人種も何も……関係ないんだろ。心は同じなんだろ」
「ゼロス……おまえ……」
「絶望するな!たかだか親父程度のことでぐらついてるんじゃねぇっ!おまえはおまえだ。違うか!」
「……それにクラトスさん、ロイドを助けてくれたんだよ」
二人のロイドを励ます声。私はそれをただ聞いていた。
ただ、聞くだけだった。
心動かされるようなことは何もない。凍り付いてしまったままクラトスを見ていた。ただ、ロイドがクラトスに声をかけるのを。
私は何を考えている?今、クラトスにどんな感情を抱いているんだ?自分でも分からずに思考がぐるぐると堂々巡りをしている。
――クラトスが私たちを裏切った。悲しい。
――クラトスが私に要の紋をくれた。嬉しい。
――クラトスが大樹の暴走を止めるため私たちに協力してくれた。嬉しい。
――クラトスが私たちの前に立ちはだかってウィルガイアへ連行した。悲しい。
――クラトスが、身を挺してロイドをかばった。
嬉しいのだろうか?嬉しいはずだ。
悲しいのだろうか?どうして、悲しいのだろうか?クラトスがけがを負ったから?違う。
私が、信じていられなかったから?
唇を噛んだ。信じられるとでもいうのか。私たちを裏切って、そのくせ重要な助言だけ残していって、手助けをして、結局また戦って、そんな相手を。ただ、血の繋がった父親というだけで。
ロイドは静かに受け止めたようだった。
「でもやっぱりあんたを父さんと呼べない。あんたの……クルシスのやり方はいやなんだ」
私は叫びだしそうだった。
だったら私はどうすればいい?


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