夢のあとさき
50

泣き声が聞こえた。
幼い子どもの声だ。無機質な部屋に不似合いの声が耳について離れない。
「うぅ……ぐす、おかあさん、ろいどぉ……」
しゃくりあげているのが自分であることに私はやがて気がついた。小さな手が涙をぬぐう。それでも止まらなくて、顔じゅうが涙と鼻水で汚れてしまっていた。
「ひっく、おとうさん、どこぉ、おとうさぁん」
私が――幼い私が、父を呼ぶ。けれどいつものように大きな手が私を抱き上げてくれることはなかった。
だんだんと泣き声が小さくなっていく。体力が尽きかけているのだろう。私はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、狭い部屋の狭いベッドで膝を抱えていた。
やがて部屋のドアが開く。ばっと顔を上げたが、そこにいたのは父ではなかった。でぃざいあんだ、と私は思った。ヘルメットをかぶって妙な格好をしているその人が私をここまで連れてきたのだ。
「これがレティシアか」
「はっ」
でぃざいあんの後ろにもう一人誰かが立っていた。髪が長い男の人だ。その人が近づいてくるので、私は思わず後ずさった。
「だ、だれ……おとうさんは……?」
助けてくれるのが父だと信じて疑わなかった私はそう問いかける。男の人はふっと笑って私に手を伸ばした。痛いことをされるのだと思って咄嗟に目を瞑ったが、おおきな手のひらはただ私の頭に乗せられただけだった。
「私はおまえの父親の……友人だ」
「ゆうじん?」
意味が分からなくて、目を開けて男の人を見上げた。ゆうじんという名前なのか、と私は思っていた。
そのことを男の人は分からなかったのだろう。ただ頷いて私の頭を撫でる。
「父親のところに連れていってやろう」
「おとうさん、の、とこ?」
「ああ」
「おかあさんと、ろいどは?」
「おまえの母と弟もいるはずだ」
言葉を完全に理解したわけではなかったが、たぶん母とろいどもいるのだろう。私は頷いた。早くおとうさんたちのところに帰りたかった。でぃざいあんは、私に痛いことばかりしたし、手に変な石を埋め込んだりもしたのだ。
その変な石を見下ろしていると、ゆうじんさんは目を細めた。
「このエクスフィアは?」
「は。A012の娘であることから適性が高いとしてクヴァルが埋め込んだようです。以前、適正なしで暴走したエンジェルス計画の個体のものですね」
「なるほど、厄介だな」
でぃざいあんとゆうじんさんがそんな話をしている。私は泣き疲れて眠くなってうとうとしていた。ゆうじんさんのマントを掴んで舟をこいでいるとまた声が聞こえる。
「ひとまず脱出する。クヴァルにこの娘を人質に取られては面倒だからな」
「了解しました」
「おまえは引き続き任務にあたれ」
「はっ」
そう言ってゆうじんさんは私を抱いたまま部屋を出た。そこからあっという間に外に出てしまって、私は安心した。あの変な建物の中は嫌いだったからだ。
「間に合うかどうか……」
ゆうじんさんが呟く。
それにどうしようもなく不安な気持ちになったのだった。


――夢をみていたようだ。
意識が浮上する。天井は無機質な白で、すぐにここがどこか分かった。
今度は誰も助けに来ない。
「……ゆうじんさん……」
ぽつりと呟く。あれは、誰だったのだろうか。ふと視界に誰かの顔が映る。髪が長い、男性だ。
「レティシア」
「――ユアン」
だんだん思考がはっきりとしてくる。そうだ、地震があって、レアバードで脱出しそびれた私はユアンに捕えられた。その際に以前つけられた腕輪の機能が使われていたらしい。横を見ると、痛々しいやけどの傷がそのままになっている。意識を失って夢をみていたのは一瞬だったようだ。
「ぅ……この、腕輪は」
痺れたことからいって、きっと電撃で動けなくするものだったのだろう。出力を上げすぎて皮膚が火傷してしまったというところだろうか。
そう、私はそこまでしないと動きを止めなかった。理由は簡単だ。
「は、こうして見ると、尋常じゃないな」
「いつからだ、レティシア」
ユアンが厳しい口調で問い詰めてくる。
いつから?私が最初につかまってエクスフィアをつけられたときからだ。要の紋を外されたのはアスカード牧場で、救いの塔でユグドラシルに敗れ去りトリエットのレネゲード基地に連れて行かれたところで私は味覚を失った。そして次は眠らなくなった。
そこまではよかった。クラトスから要の紋を渡されて、もう平気かと思ったのに――私は結局感覚まで失ったのだ。そして次は声を失い、最後には心を失うのだろう。
「感覚がなくなったのは、一週間くらい前だ。……だんだん間隔が短くなっている。すぐに声も出なくなると思う」
「そうではない!いつから天使化していたかと聞いているんだ!」
「要の紋をクヴァルに外されたときから」
きっとそうだろう。ユアンを見上げると忌々しげに舌打ちをしていた。
「あのとき外に出すのではなかったな」
「……ふ。天使化すれは私は不要だと言うことか」
「そうではない」
ユアンはかぶりを振る。それ以上答えてくれそうになかったので、こちらから質問することにした。
「ユアン、天使になる者はみな心を失うのか?それとも、あれはコレット……マーテルの器になる神子だけなのか」
「天使化とは肉体を無機生命体化する技術だ」
説明してくれる気はあるらしい。椅子に座り直して腕を組んだユアンは私の傷を見下ろして続ける。
「クルシスの輝石をつけると段階的に体が無機物化していく。食事や排泄が不要になり、睡眠も不要になる。感覚がなくなるのは脳が無機生命体化した体を病だと判断すると激痛がもたらされるからだ。これは完全に輝石と融合すればなくなるが」
なるほど、ユアンが傷を庇ったりしていたことから完全に痛覚がなくなるわけではないと分かっていたが、今は中途半端な状態だから逆に全てシャットダウンしているということか。
「声が出なくなるところからが神子特有の症状になる。あれは精神的に死に、マーテルの器となるための変化だ」
「では、私の声は失われないのか」
「そうだ。だが、完全に融合したとき――おまえの心は失われる」
「!」
結局そうなるのか。私は自分の体が強張るのを感じていた。実際に天使となったユアンから言われると言葉の重みが違う。
「……それは、コレットのように取り戻すことができないのか」
「できる。現に私やクラトスも取り戻しているだろう。だが、感情を取り戻した天使はごくわずかだ。ほとんどの者は心を失ったまま、ただ機械的に動いている」
「……」
その心を失った天使たちというのはおそらくクルシスの天使たちなのだろう。レミエルは感情があるようだったが、あれも特例だったとは。息を吐いてベッドに身を預ける。自分ではどうしようもないことだったが、気が重くて滅入ってしまいそうだ。
「……ひとまず治療をする。他に傷はないのか」
「ああ、あったかな」
今は触って分からないので見て判断するしかない。そう言えばと思ってオゼットで飛竜に吹き飛ばされたところを見るとやはり傷になっていた。
「うわっ、ひどいな」
「まったくだ。治癒術を使える者を呼ぶ。しばらく大人しくしているのだな」
ユアンはそう言って立ち上がる。
気力のない私はそれに従うしかなかった。


- ナノ -