リピカの箱庭
幕間27

「今のレティシアは危うい。それはお前がよく分かっているだろう?ガイラルディア・ガラン」
ユリアシティの客間で、ソファに体を投げ出したマルクトの皇帝はそう言った。レティシアを休ませた後、どこからか現れたピオニーに捕まり部屋に引きずり込まれたガイは、なんとか浮かべていた愛想笑いをさっと消した。
先ほどの出来事を見ていれば、自ずとわかることだ。この皇帝と妹が妙に縁深いらしいせいもある。
「……どうなさるおつもりですか」
「そう警戒するな。だがまあ、あれほどとは俺も想定外だった。よくここまで取り繕えたのだと感心するくらいだ」
ガルディオス家の遺児、聡明で慈悲深い若き女伯爵。レティシアの評価といえばそんなものだ。戦を嫌うだなんて少女めいた理想論だと揶揄する者もいるが、実際に戦災者をまとめ上げ治安を維持し、その上技術の発展にも貢献するという実績のあるレティシアを真っ向から批判できる貴族はほぼいない。何より民衆から人気があるというのがレティシアの地位を確かにしていた。
そんなレティシア・ガラン・ガルディオスがキムラスカとの和平を成す会談で剣を抜き、あまつさえファブレ公爵に斬りかかったなど、信じる者の方が少ないだろう。それくらいあの行為はレティシアが作り上げた偶像からかけ離れていて、そしてそれこそが心の奥底に隠していた本心に他ならなかった。
ではなぜ、レティシアが今になってその剣を抜いたのか。答えは簡単だ。ガイは血が出るほどに拳を握りしめた。
「妹の傷は一つも癒えていません。誰も癒してやれなかったからです」
「お前が戻ってきたから、ようやくそれを思い出したのか。……やれやれ、難儀な娘だ」
レティシアが演じていたのはガルディオス伯爵という偶像だ。そしてそれは代役に過ぎないとレティシアは信じ込んでいた。ならば、本来の役者であるガイラルディアが戻ってくれば役を降りるのは必然である。
「陛下はなぜそこまで妹を気にかけられるのですか?」
ガイはマルクト皇帝の人となりに詳しいわけではない。だが、ジェイドにそう接するように、レティシアへの態度はどうにも気安いように思えた。和平会談で剣を抜いたことを叱責するそぶりすら見せないのだ、甘いと言ってもいい。
「ジェイドに聞いたんだろう?ホドのことは」
「はい。ですが、それだけが理由とは思えません」
ホドの被害者に罪悪感を抱こうと、外交の場で問題行動をする人間を咎めないのはまた別の話でもある。ガイは極めて冷静にそう指摘した。
ガイのまっすぐな視線にピオニーは内心舌を巻いた。ホド崩落の真相に内心穏やかでいられるはずがない。けれどそれより、ガイは生きている妹を優先していた。
そのガイを狂わせた復讐心を、レティシアは抱き続けている。ホドグラドで、あるいはケテルブルクで垣間見たそれだ。
「俺はレティシアとはそれなりの付き合いだ。あいつの境遇は俺と似ているところがある」
「境遇、ですか」
「皇帝の子どもなんて損なもんだ。子どもの時から大人の前じゃ気も抜けない。預言に詠まれたのなら何もかも手放さなければならん」
ガイは思い出す。幼い頃、ベッドの上で泣いていた妹を。
「俺は俺の国が不幸にしたあいつを放ってはおきたくないんだ」
「……」
「だからつまりな、ガイラルディア。お前にただで爵位をくれてやるわけにはいかない」
自分の知らない妹を知る男に、ガイは沈黙した。どんな無茶を言われるのか不安になる。あのレティシアを見てしまった以上、ガイは全ての責を負う覚悟を決めていた。
「レティシアには爵位を与える。ガルディオス家と同じ伯爵位だ」
「それは……」
「お前が本家のガルディオス家を継ぐがいい。だがガイラルディア、今のレティシアには重石をつけさせてもらうぞ」
ガルディオス家は長男であるガイラルディアが継ぐ。それがレティシアの望みだ。
もしレティシアがピオニーの言う通り爵位を得たならば、ガイのそれは名ばかりになりかねない。ガルディオス伯爵、という役はレティシアの方がはるかに有名だ。それにつきまとうイメージがレティシアの行動を制限する重石になる。
「はっきり言わせてもらいますが」
「ああ」
「やはりあなたは妹に甘いですよ」
「なに、俺は気に入ったやつには甘いんだ」
ガイはやれやれと肩を竦める。ピオニーの言い分は理解できた。レティシアがガルディオス伯爵の肩書きを持っていようとなかろうと、本人が優秀すぎる。そんな人材を手放したくないというのもわざわざ爵位を与える理由の一つだろう。
ピオニーの提案はガイも願ってもいないことだ。問題は、レティシアが頷くかどうかである。

実際、ガイがグランコクマに帰還してピオニーに拝謁し、この話題を切り出されたレティシアは固まっていた。
「……はい?」
「だからこれが叙位証だ。レティシア・ガラン・ガルディオス伯爵」
セシル家の件を報告しガイの襲爵の申請があっさり受理され、ではこれでと踵を返しかけたとこれで突きつけられた新たな爵位はレティシアも想定外だったらしい。口止めされていたガイは内心で妹に謝った。
「な……なぜ私が」
「安心しろ、今朝方議会で承認取れたてホヤホヤだ。断ることはできんぞ」
「安心する要素が今の台詞のどこにありましたか?」
「根回しが済んでいないわけがないだろう。何せ俺は皇帝だからな」
はははと愉快そうに笑うピオニーに、何を言っても無駄と悟ったのかレティシアは眉根を寄せて口を閉じた。代わりにぐるんとガイに向き直る。
「知っていましたね、ガイラルディア」
「……知っていました。すまん」
ガイが爵位を継ぐことに明確に反対していたエドヴァルドには事前に伝えていた。そうしなくては家の中が荒れるに決まっているからだ。ガイだって無用な争いの種は蒔きたくない。しかし黙っていたことに対する罪悪感はあった。
「ガイラルディアも巻き込んでどういうおつもりです」
「どうもこうも、お前の実績にふさわしい立場と今後に便利な権力を与えただけだろう」
「……陛下。ホドグラドのことは」
「正式に卿を任官する」
レティシアは眉間のしわを深くする。なんとなく、妹がピオニーを心配していることがガイにわかった。
「良いのですか。もう取り返しがつきませんよ」
「今更あそこから卿を取り上げる方が取り返しがつかんだろう。ガイラルディアにはそうだな、俺の側仕えでもしてもらおうか」
「はい!?」
それは聞いていない。ガイはつい間抜けに口を開けたまま楽しそうな皇帝を凝視した。
「それは困ります。ガイラルディアにはこちらで引き継ぐこともあるのですから」
仮にも皇帝の言葉を両断するレティシアの肝の座り方はどうなっているのか。遠い目をしてしまう。
「では半々でどうだ。常に拘束するとは言わん」
「それでかまいません。しかし側仕えとは、ガイラルディアに何をさせるつもりなのです?」
「ブウサギの散歩とかどうだ」
「ガイラルディア、あなた上司運がありませんね」
「……オブラートに包んでくれ、レティ」
一体これからどうなってしまうのか。前途多難そうなマルクト貴族生活に想いを馳せるガイに、レティシアは不思議そうに首を傾げていた。


- ナノ -