月の蒼天
02

この屋敷はエステルがハルルで暮らすとなったときに買ったものだ。帝都にある貴族の屋敷よりもはるかにこぢんまりしていて、使用人も通いの人しかいない。わたしはエステルのお世話係みたいなものとしてそこについて行って一緒に暮らしている。
実際、ヨーデルはわたしの扱いに悩んだんだと思う。満月の子としての力を持つけど、正式な皇族ではない。目を離してはおけない存在というのは本人からも言われている。帝都に近すぎて誰かに取り込まれるのも、遠すぎて誰かに利用されるのもダメ。お城でヨーデルの側仕えをするには当時のわたしは子どもすぎた。だからエステルの側がきっとちょうどよかったし、わたしもお城に閉じ込められるよりはエステルといられるほうが嬉しかった。
最近はお城に行ってヨーデルの手伝いもしている。前からしていたけど、その比重が結構大きくなったのだ。逆にエステルは少しずつ政務からは遠ざけられていた。エステルにはああいうのはあんまり向いていないからだと思う。わたしには「前」の――王の娘だったころの記憶もちょっとはあるせいか、政治的な駆け引きに苦手意識はそんなになかった。
だからヨーデルは選んだのだろう。わたしを、フレンの婚約者に。
「落ち着きましたか?レティシア」
マグカップを空にした頃にエステルがそう尋ねてきた。わたしはうなずいてカップを置く。
「うん。……ごめんなさい、エステル。リタさんとジュディスさんも」
せっかく二人が遊びに来ていたのに――リタさんは遊びじゃない!と言うかもしれないけど――邪魔してしまった。
「別に気にしてないわよ。それより何があったのか話しなさい」
「リタは気が短いから今のうちに言っておかないとフレンの方に行っちゃうわよ」
「誰の気が短いですって?」
リタさんとジュディスさんは正反対に見えて仲良しだ。実際にフレンのところに行かれてしまっては困るのでわたしは正直に話すことにした。
「フレンに婚約を申し込まれたんです」
「……フレンが、」
「あんたに婚約を!?」
「あら、よかったわね」
絶句するエステル、叫ぶリタさん、ニコニコと佇むジュディスさん。三者三様の反応にわたしは曖昧に微笑んだ。
「えっ、あいつそういう趣味なの?」
「それはまあ、ねえ」
ジュディスさんがちらりとわたしを見る。わたしはうなずいた。
「わたしとの婚約はあくまでフレンの立場を支えるためのもので、フレンがわたしをどう思ってるかは関係ないのです」
「あー……、フレンってそういう面倒な立場よね。まああんたもフレンのこと嫌ってないんでしょ?」
「むしろ好きなんじゃないかしら?」
「そうですけど」
「ならいいじゃない」
よくはないので泣いていたのである。
わたしがフレンを――そういう意味で好き、というのはリタさんにもジュディスさんにもばれていたらしい。まあ、我ながら、結構わかりやすいと思うのでそんなものだろう。今はだいぶましになったけど、前は男の人が苦手でフレン以外とはあからさまに距離があったと思うし。
しかしエステルが固まったまま戻ってこない。わたしはエステルの手を引っ張った。
「エステル?大丈夫ですか?」
「……、えっと、その」
エステルは大きな瞳を瞬かせてわたしを見た。困惑が浮かんでいるのはわかるけど、なんでどこか後悔したようにも見えるんだろう。
「びっくりして、それで……その、レティシアは、なんと答えたんです?」
「はい、って」
それ以外に応えようがなかったので、わたしはフレンの婚約を受け入れた。フレンにとってはそれだけの話だ。
「いいんです?レティシアはまだこんなに小さいのに、なんでそんな……ヨーデル……」
「ヨーデルには妹も、政略に使える娘もわたししかいないから仕方ないです」
「そんな!だったら」
エステルはがたんと立ち上がった。何を言い出すのかわかってわたしも慌てて立ち上がる。
「エステル!いいんです、わたしがいいって言ったから。ヨーデルから言わなかったのは、わたしが断れるようにって、そのためなんです。きっと」
これはわたしの選択だ。
ヨーデルからの命令でなかったならわたしが断ることもできた。好きな人がいれば――よっぽどの事情がなければ――その相手と添い遂げたいと願うことも許された。その好きな相手というのがフレンだったので、はたから見ればとても幸運なんだと思う。
それに。エステルがフレンと結婚するのは、わたしは嫌だ。わたしがフレンのことを好きなのもあるし、エステルが好きな相手がフレンじゃないから、というのもある。
「じゃ、なんであんなに泣いてたのよ。あんたはフレンが好きで、フレンに婚約を申し込まれたから受け入れた。ならそれでいいじゃない」
リタさんはオブラートというものを知らないのでずけずけと言ってくる。その率直さは好きだけど、こういうときはちょっと答えにくい。
でもごまかせる気もしなかったので、わたしはため息をついて本音を吐き出した。
「……フレンがかわいそうです」
そう、フレンはわたしという、皇族とのつながりを得られる。厳密には皇族ではないのは置いておいて(というか厳密には皇族ではないからこそというのもきっと理由の一つだ)、ヨーデル側の人間であることは確かだ。ついでに言うとわたしの力はエアルの暴走を抑えられるという点でも有用である。
でも――フレンは自分の結婚をそうやって利用することを選んでしまった。好きな人とは結婚できない。それが、わたしは悲しかった。
「そうかしら?フレンはあなたのことを嫌っていないのだからかわいそうでもないんじゃない?」
「まあ、変な女とくっつかれるよりははるかにいいわよね。虫除けにもなるし」
しかしジュディスさんとリタさんはあっけらかんと言い放つ。虫除けというのはたぶん、フレンに言いよる貴族の令嬢たちやフレンを己が陣営に取り入れたい貴族からの圧力に対するそれだ。確かにフレンはそういうところで苦労しているのだけど。
「……フレンは浮気なんてしません。大丈夫です。レティシアはこんなにかわいいんですから!」
何か考え込んでいたエステルはわたしの手を掴んでぐっと顔を寄せてきた。
「フレンをものにしましょう、レティシア!」
「……エステル、変な本読みました?」
絶対恋愛小説かなんかに影響されたんだと思う。活字中毒のエステルはお城にいたときよりもさまざまな本を読みあさっていて、若者向けの読み物もそのうちの一つだ。
「いいわね、フレンを落とせば憂いもないものね」
ジュディスさんまでノリノリだ。そんな戦闘モードの笑顔を浮かべないでほしい。エステルはともかくそんなジュディスさんには敵いそうにないので、わたしは諦めて頷くことしかできなかった。


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