リピカの箱庭
79

鏡にうつる自分は見慣れなかった。片目を覆っているからだろうか。なんだか不思議な気分になりながら部屋を出る。
もうそろそろ出立の時間だろう。けれど、その前にメシュティアリカに会っておきたかった。
――厳密に言えば、ルークにもだ。
ユリアシティの建築物は私の知っている中ではホドのそれに近い。懐かしさと違和感をないまぜに感じながら歩いていると、向かいからやってきたのはガイラルディアだった。
「――」
お互い言葉が出てこない。でも、ここではいけない。ガイラルディアが望まないのなら私はまだ"ガルディオス伯爵"だ。息を吐いてから乾いた唇でどうにか言葉を紡いだ。
「ノイに聞きました。あなたがタルタロスまで運んでくださったんですね」
「当然のことをしたまでです」
「それでも、――ありがとう」
ガイ、と口に出さずに言う。ガイラルディアはレティ、と瞳だけで告げた。気遣うような色はどうしても目立つこの眼帯のせいだと分かった。
「それで、一つ訊きたいのですが」
「ええ、どうぞ」
「グランツ響長はどこにいますか?」
「ティアですか?自室に――そこの奥の部屋にいると思います」
言ってからしまった、というふうに顔を歪めたのはルークもそこにいることを知っているからだろうか。私はそれには気がつかないふりをして「そうですか。彼女にも礼を言っておかねばなりませんから」とガイラルディアの告げた部屋へ歩を進めた。
「ガルディオス伯爵」
後ろから声がかかる。
「……ルークはまだ目を覚ましていません」
振り向くとガイラルディアはこちらをじっと見据えていた。ルークを傷つけさせたくないという表情だ。私の知っているガイラルディアではない。ルークの従者としてのその姿は、ひどく遠い存在のように思えた。
「わかっています。彼だけを責めたりなどしません。それはあなたも知っているでしょう」
そうとだけ言って私はガイラルディアに背を向けた。――ずるい。ルークはずるい。
ずっとガイラルディアと一緒にいられたルークはずるい。私が失った時間をルークは得ていたのだ。彼を恨みはするものか。でも妬ましいと思う。
今のガイラルディアは――ガイ・セシルは私のことをあんなふうに想ってはくれない。彼と私はただの他人だからだ。痛む胸が苛だたしい。
知らず大きくなる歩幅でメシュティアリカの部屋に辿り着いた私は深呼吸をしてからドアをノックした。
「伯爵さま?」
ドアを開けたメシュティアリカは瞬いて、そして階段を振り向いた。階上でルークが眠っているのだろう。
「ええと……どうなさいましたか?」
「ティアさん?誰か来たですの?」
足元から声が聞こえて私はそちらに視線を向けた。ぱたぱたと耳を揺らしているのは私も知っている生き物だ。ルークたちと最初に会ったときはおとなしくしていたので喋っているのは初めて聞いた。
「ミュウ!だめよ、今は……」
「そのチーグルは喋るのですね」
「はいですの!」
元気よく返事をするミュウに、メシュティアリカは諦めたように説明してくれた。
「ソーサラーリングのおかげだそうです。伯爵さま、中にお入りください」
頷いて部屋の中に案内してもらう。テーブルに着くとミュウは隣の椅子によじ登ってこちらを見上げてきた。
「ボクはミュウですの。伯爵様は、伯爵様ですの?」
「そうです。レティシア・ガラン・ガルディオスといいます」
「ガルディオス伯爵様ですの!目は痛くないんですの?」
「もう痛みはありませんよ」
そっと布越しに触れる。痛みがないわけではないが、別に今このチーグルに言うべきことでもないだろう。それにしても、チーグルというとまたホドでの出来事を思い出してしまう。あのチーグルたちは――きっと、崩落に巻き込まれて無事ではなかっただろう。そんな思い出はすぐに頭の奥に追いやった。
「ルークの様子はどうですか?」
「ご主人様はまだ起きないですの。伯爵様はご主人様に会いに来たですの?」
しゅん、と耳を下げるミュウは表情豊かだ。無言で見守っているメシュティアリカが焦っているような気配を感じて私は苦笑した。
「いいえ、休んでいるならそのままで結構です。ルークもいろいろと考えることがあるでしょう」
「伯爵様は怒っていないですの?」
「こら、ミュウ!」
あまりに直接的な問いにいよいよメシュティアリカが声を上げた。ミュウだって私がどう答えるか想像がついたからこそこんな問いかけをしたのだろうから気にしなくたっていいのに。メシュティアリカは当事者ではないのに気負いすぎだ。
「怒ってどうにかなるものではありません。ただ、彼が責を放棄するならば許しはしませんよ」
まだ子供だろうと、レプリカだろうと、利用されただけだろうと――ルークの行いは確かに間違いだった。彼が悪くないなんてことは決してない。それを今責めないのは私にだってできなかったことがある事実を自分で分かっているからだ。
「ミュウ、もういいでしょう?上で待っていて」
「みゅぅ……。はいですの」
ミュウがおとなしく階上に上がったのを見てメシュティアリカはため息をついた。だからそんなに気にしなくたっていいのに。
「すみません、伯爵さま」
「気にしていませんよ。そうです、あなたに礼を言いに来たのですから」
「お礼……?何のでしょうか」
心当たりがないといわんばかりに首をかしげるメシュティアリカに私は自分が着ている上着をトントンと叩いた。
「綺麗にしてくれたのでしょう?」
「あ……。はい、そうです。それだけしかできませんでした、ので」
治療はイオンに任せていたのを気に病んでいるのかもしれない。とはいえ、メシュティアリカに任せるわけにもいかなかったのだ。
「私の治療をするのがあなたの仕事ではないでしょう。ここに留まると聞きました」
「はい……。兄さんのことも、ルークのことも私は放っておけません」
「ヴァンデスデルカのことですか」
ぐるりと部屋を見回す。この部屋にヴァンデスデルカがいたこともあったのだろうか。私の知らないヴァンデスデルカが。
ガイラルディアも、ヴァンデスデルカも同じだ。私の知っている人はもういない。過去は取り戻せない。あの失われた地には帰れない。
――その現実が怖かったから、もう手放してしまおうと思ったのに。私はまだ生きてここにいるのだ。
「メシュティアリカ、一つお願いがあります」
不安そうに揺れるメシュティアリカの瞳を見つめる。自分の臆病さが嫌になる。それでも言わなくてはならない。
「大譜歌を完成させてください」
「!、ですが、私はまだ……」
「あなたにしか出来ぬことです。フェンデ家を選ばなかったあなたに強制できることではありませんが」
他のことなら足りない要素をある程度補えるだろうけれど、譜歌だけはどうにもならない。これから先、預言通りの未来になろうとヴァンデスデルカの計画が進もうと、どちらにせよ大譜歌の完成は必要だ。それはガイラルディアの望むことだから。
「……わかりました。できる限りでやってみます」
「頼みましたよ」
そう言って立ち上がる。そろそろ向かわなくては出立に間に合わないだろう。メシュティアリカも立ち上がってドアを開けてくれた。
「伯爵さまは大佐たちと戻られるのですか?」
「ええ。そんな顔をせずとも、怪我はもう大したことありませんよ」
「それでも、お気をつけてください。何があるか分かりませんから」
「あなたもです、メシュティアリカ」
視線を交わしてから部屋を出る。この先に進むための覚悟を私も抱かなくてはならなかった。


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