リピカの箱庭
73

屋敷の中が静まり返ることはない。夜でも救護活動は続いていて、しかし避難で人数が減っただけ一時期よりはましだった。執務室から出ると階下の灯りとざわめきが届いてきて、私はそれを見下ろす人影に気がついた。
手すりに肘をついた彼の表情はうかがい知れない。私の印象はよくないだろうから声をかけないでおこうかとも思ったが、放っておくのもなんとなく悪い気がした。ゆっくりと近づいて口を開いた瞬間、彼は振り向きながらつぶやいた。
「もう戻るって。ガイ」
目を丸くして足を止めてしまったのは仕方ないことだと思う。顔を上げたルークも、私を見て一瞬硬直してしまっていた。気まずい沈黙が降りる。
「……眠れぬのですか?」
いたたまれなくなってこちらから仕切りなおす。ルークはふいと顔を逸らして「別に、」と呟いた。
「なんでここにいんだよ」
「そう言われましても。私の屋敷ですので」
「そうじゃなくて。ああもう、いいよ」
私を従者と呼び間違えてしまった気恥ずかしさもあるのかと思ったが、ルークは本当に苛立たしげだった。はて、どこが気に障ったのだろうか。年頃の少年とは難しいものだ。
「眠れないのでしたら、何かあたたかいものでもお持ちしましょうか」
「いいって。使用人もいないんだろ」
「では、部屋までお送りしましょう」
「……だから、あんたみたいに顔色が悪いやつに気ぃ遣われる理由なんかねえんだよ。そっちこそさっさと寝ろよ」
その言葉に私はもう一度瞬いた。そんなに顔色が悪く見えるだろうか。いや、それ以前に――正直、彼にそうやって気を遣われるのは意外だった。昼間に彼に告げたことは何も間違っていないと思っているが、それでも嫌われただろうことは分かる。
彼よりもこちらの方が狭量なのかもしれないな。私は苦笑した。
「そうですね。私も休むとします。おやすみなさい、ルーク」
「おう……」
夜の挨拶だけ交わして私は言った通り部屋に戻ることにした。廊下の灯りはそのままにして部屋に向かっていると、話し声が聞こえて顔を上げる。私の部屋の扉に伸びる二つの影はアシュリークとメシュティアリカのものだった。
「こんな夜更けにどうしたんだ」
「こっちの台詞だ。いつまで仕事してんだよ」
呆れたようにアシュリークが肩をすくめる。
「私のことはいい。お前は明日早いのだからさっさと休むべきだろう、アシュリーク」
「あいにくご主人さまが夜更かしでね。おちおち寝てられないんだよ」
ああ言えばこう言う。騎士という職務に着いている以上私の護衛が仕事なのは確かだが、この事態だ。人手も足りないので気にしなくていいと言ってはいるものの、現状アシュリークへの負担が大きいのも事実である。
「わかったわかった、もう休む。だから早く部屋に戻りなさい。メシュティアリカ、あなたもです」
「あ、私は、その」
メシュティアリカに水を向けると狼狽されてしまった。見かねたアシュリークが助け舟を出す。
「ティアはお前に用があるんだとさ。少し話聞いてやれよ」
「話?かまいません」
アシュリークがドアを開けたのでメシュティアリカを招き入れる。アシュリークはそのまま「じゃあ俺はこれで」とドアを閉じた。
「メシュティアリカ、そこのソファにおかけなさい」
「はい……」
「あたたかいものでも飲みますか」
「いえ、その」
懐かしくなって私は思わず微笑んでしまった。メシュティアリカに最後にホットミルクを作ったのはいつだっただろうか。もう遠い昔のことのように思える。簡易キッチンでミルクを温めている間、メシュティアリカはあの頃と同じように黙ってじっと待っていた。
「伯爵さま」
カップを受け取ったメシュティアリカは、口をつけてからほう、と息を吐いた。張り詰めていた雰囲気が和らぐのも、いつものことだ。私の前だと緊張しがちなのは私が伯爵代理だからだろうか。アシュリークは彼女が私に懐いていたと言っていたが、私よりよっぽどジョゼットやロザリンドに懐いていたと思う。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありませんよ」
「違うんです。私、もう戻ってこられないと思っていたんです。伯爵さまに、迷惑をおかけしたくなかったから」
何の話だろうか。黙っていると、メシュティアリカは言葉を続けた。
「また、そうやって呼んでくださって、嬉しいんです」
「……今だけですよ」
仕事中ではないのだから、いいだろう。アシュリークに感化された思考で私が言うとメシュティアリカは表情をほころばせた。私だって彼女に嫌われたいわけではないし、冷たく接したいわけでもない。最後くらいはいいだろう。
「それで、用があったのではないですか?」
この空気は手放しがたいが、明日のことやメシュティアリカの疲労を考えるとあまり長く話し込んでもいられない。彼女は表情を硬くして私を見上げた。
「それなのですが……。あの、兄さんは、グランツ謡将は伯爵さまから見てどうですか?」
「どう、とは」
「何か不審なことをしたりはしていませんか?」
ふむ、と私は口元に手をやった。不審、か。メシュティアリカの中の兄への疑念はまだ晴れていないらしい。それもそうだ、一度は殺そうとしたほど思い詰めていたのだから。
「グランツ謡将には救護活動に尽力してもらっています。……何か、あったのですね」
そう促すとメシュティアリカは目を伏せたまま頷いた。
「それは、親善大使殿の関係することでしょうか」
「いえ、ルークは……!ルークは、私が巻き込んだだけなんです」
ばっと顔を上げて首を横に振る。その必死さに、私はつい微笑ましく思ってしまう。
「ずいぶんと親しげなのですね」
「あ、その」
「責めているのではありません。あなたがそうして言うくらいの方なのでしょう。それならそれでよいことだと思いますよ」
確かにルークはファブレ公爵家の子息だが、私に彼と親しくするのを咎める権利なんてないし、メシュティアリカがそれを負い目に感じる必要もない。メシュティアリカは視線をさ迷わせてから口を開いた。
「ルークは……、わがままですし、世間知らずだとは思いますが……悪い人ではないんです。これからいろいろなことを知っていくんだと思うんです」
メシュティアリカがそんなことまで言うのは意外だった。私の知っている話では、ルークとティアの相性はよくないように思えたし、特にアクゼリュスまでの道のりでは関係性が悪化していたはずなんだけど。そんな出来事はなかったのか、それともメシュティアリカの受け止め方が異なるのか、どちらにせよ彼女がルークを気遣ってくれるのなら悪い方には転ばないだろう。
「よかったのかもしれません」
思わずつぶやくとメシュティアリカは目を瞬かせた。「何が、ですか?」その問いに微笑みを浮かべて応える。
「あなたが自分の道を選んで、成長できたのなら喜ばしいことだと感じたのです」
「……できているでしょうか」
「できていますとも。さあ、メシュティアリカ。もう遅いですから、おやすみなさい」
空になったマグカップを取り上げるとメシュティアリカはためらいがちに立ち上がった。部屋の扉までついていって、最後に付け加える。
「グランツ謡将の動向は私も注視しておきましょう。あなたも気をつけるように。この街は安全とは言えません」
「はい。伯爵さまも、お気をつけて」
閉めた扉をしばらく見つめてから、私はカップを取りにソファへ戻った。これを洗って、それから――もう一つ仕事があるのだった。変わらず飾ってあるぬいぐるみに視線をやる。着ている服はもう色あせてしまっていた。着替えさせてやったほうがいいだろう。
長い夜ももう終わる。けれど夜明けはひどく遠かった。


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