胡蝶の舞
幼少期編-6

私が次に目覚めたのは丸一日後だった。やたらお腹が空いていると思ったらあまりの寝過ごしっぷりに自分でも驚いた。とりあえず食事を要求したら診察に来た医者に「食欲があるのならひとまず大丈夫ですね」と言われたが、ひとまずってなんだ。若干不安になる。
しかし医者は詳しいことは話してくれず、メイドもアテにならなかった。というか、この家の使用人はどこか距離がある。前の屋敷もそうだったが、私のどうしようもないところで妙に嫌われているのは居心地のいいものではない。父上と母はどれだけ仲悪かったんだ。
「ちちうえ、しごと?」
「ええ。帰って来られるのは明日になります」
仕方ないので父上に聞こうと思ったがまだまだ帰ってこないらしい。今日はおとなしく部屋で本を読むことにした。父上の持ってきた本は絵本だけではなく、専門書も多くあった。おそらく初級編なのだろうけれど、読むにしても言葉の意味が分からない。メイドに辞書があるか尋ねると大きくて重いそれを持ってきてくれた。めくるのは大変だったが、これで読書が捗りそうだ。
そうして一日中ベッドの上で本を読んで過ごし、父上が部屋に来たのはメイドの言葉通り次の日だった。ノックされたドアの向こうから「私だ。開けるぞ」と声がかかって、私が返事をする前にドアが開けられる。私はベッドの上に散らかしていた本を片付けておけばよかったと後悔した。父上は散らかした本を見て目を細めた。
「本を読んでいたのか」
「ん」
「体調はどうだ」
「ふつう」
「ならいい」
いや、よくはない。私は慌てて父上の服の裾を掴む。
「びょうき、ある?」
「……」
率直に尋ねると父上は言葉に詰まったように喉を鳴らした。そして視線を背けて私の頭に手を乗せる。
「こんなところだけ母親に似るのだな、お前は。皮肉なものだ」
「おかあさま」
「あれも体が弱かった。レティシア、お前は病気ではない。ただ体が弱いのだ」
手を乗せられているせいで父上のことを見上げられない。しかし、体が弱いときたか。覚えはある。ダミュロンと外に出た後に寝込んだのはそのせいなのだろう。
「これほどの才を持ちながら……儘ならぬものだ」
ぽつりと言葉が降ってくる。なんのことかは分からなかった。ようやく手が退けられて、私は顔を上げるか迷った。でも、父上がどんな顔をしているのかが見たかった。
「ちちうえ」
私を見る瞳は迷いに満ちていた。何をそんなに戸惑っているのだろうかと、不思議に思う。私が虚弱体質だとしたらどうなのか?貴族の娘なのに子供を産めないことを懸念している?でも、同じような体質だったらしい母は一応私という子供を産んではいる。それとも私が長じる前に死んでしまう可能性を考えているのだろうか。子供というのは育てるのに手間がかかるものだし、父上の場合は再婚しなくてはならない。そりゃもう面倒だろう。
「……すまない」
何に対して謝っているのか分からず首を傾げた。この場合、どちらかというと謝るのは私のほうな気がした。体が弱いのは私のせいではないが。
「どうして」
父上は虚を突かれたように目を瞬かせた。
「ちちうえ、わるいことした?」
「私は……」
なんだか不思議だった。父上が言葉を選ぶのが、まるで子どものようだったから。思えば、この人はまだ若い。普段は騎士らしい威厳を纏っているけれど、今だけは違った。
「お前が憐れなのだ。このような体に生まれついたことを残念に思ってしまう。そうでないのなら、剣もいくらでも教えられたろうに、惜しいと考えてしまう。浅ましいものだ。これで人の親など……」
それはちっとも子どもに向ける言葉ではなかった。父上はきっと子どもの扱い方が分からないのだろう。だからたまに理不尽なことを言う。でも、子ども相手だろうと本心を打ち明けようとするのは父上の誠実さだと思った。
あと、私のことを嫌っていないこともよく分かった。どちらかというと親としての情を向けようとしてくれている。母は生きていたとしても、私が虚弱なことを憐れんではくれなかっただろうからその点では父上のほうが親らしかった。
「ちちうえ。べつに、かまわない」
掴んだままだった服の裾を手放して、父上の指に手を伸ばす。握った指の皮は硬くてごつごつとしている。
「わたしここにきて、どれくらい?」
「……じきに三ヶ月が経つな」
「ちちうえはさんかげつより、みじかい」
「短い……?ああ、お前と顔を合わせたのはしばらく経ってからだったな」
「ん。だから、きにしない。ちちうえずっといなかった」
ここに来るまでは生まれてからずっと、父上に会ったことはなかった。そんな彼に親としての自覚なんてないのが当然だろう。たった数ヶ月しか娘と接したことがないのだから、親として失格とかは今更である。と、慰めたつもりだったが父上はあからさまに肩を落としていた。
「……ぐ。堪えるな。だが、自業自得か」
「ちちうえ、たいちょうわるい?」
「いや。私は平気だ。それよりレティシア、今後はお前こそ体調に気をつけなさい。外に出るなとは言わないが、少しでも気分が悪くなったら部屋に戻るように。分かったな」
これまでも庭でちょっと遊ぶ分には問題なかったので多分大丈夫だろう。どちらかというと、倒れる原因になった出来事の方が重要だ。
「けんのれんしゅうは?」
あれは不思議な感覚だった。剣を握るだけでどうすればいいのか、自然と分かったのだから。それを取り上げられるのは惜しい気がする。なにせこの世界では結界の外に一歩出れば魔物たちが跋扈している。将来的に――今現在どういう状況かは不明だけど――魔導器がなくなることを鑑みると武器を持てた方が都合がいい。
「無理をしない程度になら稽古をつけてやろう。いいな」
「うん。ありがと」
ぎゅっと指を握る。父上は相変わらず戸惑った顔をしていたが、やがて恐る恐る私の手に自分の手を重ねた。包まれた指があたたかい。私はほっとして、自分が不安がっていたことに初めて気がついた。


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