胡蝶の舞
幼少期編-3

「え?レティ、この屋敷から出たことないの?」
何かのタイミングでダミュロンがこう言ったのは覚えている。私は素直に頷いた。屋敷の庭からは一歩も出たことがないのは事実だった。母はずっと臥せっているし、私を外に連れ出す人は誰もいない。庭ならともかく門の外に勝手に出ることも、もちろん許されていなかった。
なんだけど、こうなることは予想していなかった。
ダミュロンはいつもよりずっと質素な服を着ている。私もボロのローブを被せられていた。そして私たちのいる場所はおそらく貴族街の外の、庶民ばかりがいるような食堂だった。
「ど?おいしい?」
口の中のものを飲み込んで頷く。私の前にあるいわゆるお子様ランチがおいしいことには頷けるが、どうしてこうなったのか。理由は簡単でダミュロンが私を抱えたまま塀を飛び越えたからである。前から知ってたけど、我が家の警備ザルだな。
「おいしい」
「よかったよかった。飯食ったらいいとこ連れてってやるよ」
「いいとこ?」
「あとでのお楽しみな」
「ふーん」
よくわからないが、ダミュロンは私を家に帰してくれる気はあるのだろうか。まあ、誘拐するとしても今更だし、されたらされたで別にいいか。妙に楽観的に私はそう考えていた。だってあの屋敷にいて楽しいことは特にない。
ダミュロンがお会計の時に取り出したコインは見覚えのないもので、背伸びして覗き込むと一つ持たせてくれた。ガルド、というのがこの国の通貨らしい。そういえばそんなんだった。
「ほら、渡してもいいぜ」
ダミュロンに抱き上げられてカウンターの上が見渡せる。店員がニコニコと私を見ていたので、なるほどと理解した。
「はい」
「ありがとうございます。かわいい妹さんですね」
一瞬言われた意味が分からなかったが、店員はどうやら私とダミュロンが兄妹だと勘違いしたらしい。確かに、考えうる関係性といえばそれくらいか。ダミュロンも父親というほど歳をとっていない。
「そうなんですよ〜」
ダミュロンもそんなふうに適当な事を言っている。私は降ろしてもらったので店員に手を振ってから自分で歩き始めた。
「レティはさあ」
後ろからついてきたダミュロンが話しかけてくる。ドアを押してもらって店の外にでた。
「ダミュ、ありがと」
「どういたしまして。兄弟とかいないの?」
いるかいないかで言えばいないのだが、私の知る限り、という但し書きがつくことになる。
「しらない」
「……親戚の、えーと、お母さんの兄弟とか、そういうのに会ったこともないの?」
「ない。だれもない」
どうしてそんなことを知りたがるのか不思議だったが、隠すことでもないだろう。私は見たことのない街並みを低い視線から見上げながら知らないものに目を留めてはダミュロンに訊いたりしていた。たいてい見覚えのないものは魔導器だった。ダミュロンは噛み砕いて教えるのが案外上手く、乏しい知識の中でも理解ができて大変助かる。私に付き合ってくれていることといい、もしかして幼児の相手に慣れているのだろうか。
そうやってダミュロンに誘導されつつ向かった先は小高い丘だった。そこからはうちの屋敷の木の上からよりもずっとよく街の様子が見える。私はダミュロンに抱き上げてもらってぽかんと口を開けていた。
「どお?よく見えるだろ」
「……」
「レティ?」
「ダミュ」
興奮で顔が赤くなっているのが自分でもわかる。熱が出てるんじゃないかと思うくらいだった。私はくらくらする頭でダミュロンに抱きついた。
「たくさん、みえる」
「うん、そうだろ。この街で一番よく見えるところだぜ。ほら、あっちのがレティの家。分かる?」
ダミュロンに促されて顔を上げる。指さされたあたりを見つめてみると、確かに見覚えのある屋根の色の屋敷があった。その区画には周りにも似たような庭付きの広い屋敷が立ち並んでいる。貴族街があの辺なんだろう。
「ダミュのいえ、どれ?」
何気なく訊いてみるとダミュロンは一瞬言葉に詰まったように喉を鳴らしたが、すぐに答えてくれた。
「俺の家はあれ。奥の、見えるか?」
「……、おおきいいえ?」
「まー、確かにデカいな。一番デカいかも」
ぽつりと零された言葉に、私はダミュロンが思ったよりもいい家の子息なのだと感づいた。街で一番大きな屋敷なら、一番の権力者が住んでいるに違いないのだから。
「ダミュのへやも、おおきい?」
「はは、そうだな。レティが10人くらい寝れるベッドとかあるぜ」
「ひとりだとつまんない」
広すぎる部屋というのは案外心細いものだ。どれだけ広い庭で遊べても、ダミュロンが来ない日はつまらないし。ダミュロンも一人の部屋だとそういう気持ちになるのだろうか、と考えてみたが、きっと彼は私よりもずっといろんな家族や友人や恋人なんかがいるから違うのかもしれない。一人でいる時間がむしろ貴重で落ち着くタイプだったりするかも。けれどダミュロンはどこか寂寞感を含む表情で笑った。ただ、何も答えずに。
それがひどく印象に残っていて、もう一度街を見渡してみても脳裏に焼き付いて離れなかった。


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