胡蝶の舞
幼少期編-1

私は父親の顔というものを見たことがない。
何の因果か、前世の記憶を持って生まれた私は生まれていくらか経ってからは自我がはっきりとしていたと思う。母は病弱な人で、家どころか部屋から出たことも少ないんじゃないだろうか。乳児の私は別室のベッドに寝かされて、いわゆる乳母や使用人といった人たちに面倒を見られていた。どうやら私は貴族というものらしく、ものすごく丁重に扱われている。使用人たちは母のことを奥様と呼んだが、肝心の旦那様の話はしなかった。
謎なのは母の親戚――私の祖父母なんかの姿も見たことないという事実だ。母が天涯孤独という可能性もあるが、一応貴族らしいのだから誰かしらいるものではないだろうか。父に疎まれているのだろうかと考えてみるが、生活はかなりいいんじゃないかと思う。屋敷は広いし、ご飯もちゃんとしたものが出てくる。離乳食はおいしくなかったのでちゃんとしたご飯がいっそうおいしく感じられているだけかもしれないが。
私は寝たり起きたりしながらすくすくと成長し、この間三歳の誕生日を祝ってもらったので三歳になった。そのお祝いも使用人におめでとうございますと一言言われただけだった。父の姿はやっぱりどこにもなく、いっそどこにもないことが日常なので気にもならなくなっていた。
三歳になって嬉しかったことは庭に出してもらえるようになったことだ。前世の言語とは違う文字を学んで絵本を読むのも楽しかったが、外はまた格別だった。これまた広い庭はきちんと手入れされていて、私は雨が降っていない限りはいつも庭でのんびりと過ごしていた。
広い庭の端っこには大きな木がある。そこが私のお気に入りの場所だったのだ、が。
「……ありゃ」
木に登っていたのは知らない男の人だった。私はぽかんとその人を見上げて、首を傾げた。
「あぶない」
不審者もしくは泥棒かと思ったのでそう言いたかったのだが、私の語彙にそんな言葉はなかった。なので危ない人だ、と言ったつもりだったのに、何を勘違いしたのか男の人はするすると途中まで幹を伝って、最後は飛び降りてきた。
「とう!」
「……」
「ど?かっこいい?」
困惑するが、男の人はよく見るとそれなりにいい身なりをしていた。少なくとも使用人よりはずっといい。もしかして、どこかの貴族なのだろうか。貴族も木登りをするのか。
「ん」
「そりゃよかった。お嬢ちゃん、俺のことはみんなには秘密な」
「ひみつ」
「言っちゃダメってことな」
「ないしょ」
「そうそう」
邪気のない笑顔に不審者認定は取り消してもいいような気がした。しかし、何とかと煙は高いところが好きという。
「たかい、すき?」
訊いてみると男の人はさらに笑顔を深めて「ん?お嬢ちゃんも登ってみる?」なんて言い出した。いやいや、そんなことは希望していない。なのにひょいと抱きかかえられて、あっという間に肩の上に乗せられたかと思うと男の人はするするとまた登っていってしまった。
「どーよ。いい景色でしょ」
高いところはあまり得意じゃない――前世の記憶ではそうだったのに、広がる景色に私は恐怖心を抱くどころじゃなかった。屋敷のカーテンはいつだって閉ざされていて、私は街の景色をきちんと見たことがなかったのだとそこで初めて気がついた。
大きな街だ。どうやらこの屋敷は小高い場所に立っているらしく、下の方はごみごみとした小さな、でもカラフルな屋根が並んでいる。そしてこの屋敷よりさらに上の方には大きな剣のようなオブジェがあった。
「なに?」
指さして尋ねると男の人は不思議そうな顔をしたが、答えてくれた。
「結界魔導器だよ。お嬢ちゃん、知らないの?」
「しると、ぶらすてぃあ」
「結界があるからこわーい魔物なんかは入ってこれないんだよ。よーく覚えときな」
ブラスティア?結界?魔物?いったい何のファンタジーの話をしているんだ。聞き覚えがあるのは生まれてからの話ではない。私はまさか、と考えを巡らせた。
――ここ、ゲームの世界か?
しばらく呆然としていたが、男の人は私が景色に見とれているからだと勘違いしてくれたらしい。頭を撫でる手が大きくてあたたかいのに気がついたのは我に返ってからだった。
「高いところどうだった?」
下ろしてから男の人はそう聞いてきた。今度は膝をついて視線を合わせてくれる。私はこくりとひとつ頷いた。
「いい」
「あはは、良いか。じゃ、しっかり俺のことは内緒に――」
男の人が言いかけたところでメイドの声が聞こえてきた。「お嬢様ー!」と呼びかけるのはいつものことだ。この庭は少し入り組んでいて、迷路のようになっているので屋敷の方からは私の姿が見えないらしい。
しかし困った。私は慌てて立ち上がった男の人の指を握る。
「こっち」
「え、でも」
「かくれる。ひといない」
庭のさらに奥の方には倉庫がある。私も探検したことがあるが、誰もいないはずだ。戸惑う男の人の手をひいて一生懸命足を動かしたが、あまりに遅かったので男の人は最終的に私を抱き上げて走った。
「この倉庫か!」
「ん」
「ありがとな、お嬢ちゃん」
私を下ろして倉庫に駆けこもうとする背中に声をかける。
「また、くる?」
「……、もちろん!」
「ん。まってる」
間が空いたのは男の人に来るつもりなんかはなかったからだろう。でも、せっかく会えた人だ。私が使用人以外で初めて会話をした人だ。だから、また会えたらいいなと思った。
「お嬢様、こんなところにいらしたのですか」
「はな」
「まあ、こんな貧相な花でなくて庭の花があるでしょう」
誤魔化すために指さした庭の隅の花だったが、貧相とまで言わなくてもいいじゃないか。私はむっとしたけど、メイドに手を引かれるままにその場を去るしかなかった。


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