リピカの箱庭
幕間09

「ごらん。あのお方がガルディオス伯爵――レティシア様だよ」
そう言われて向けた視線の先には、自分よりもきっと年下の女の子がいた。なのにその表情はまるで大人のようで、佇まいは貴族そのものだった。この街ができたのは伯爵様のおかげだよ、と大人たちは言った。戦争で親を失った自分のような子供たちが飢えることなく、あたたかい寝床で安心して眠ることができるのは伯爵様のおかげなのだと、アシュリークは教えられてきた。
ガルディオス伯爵の隣にはいつも騎士がいた。その騎士は自然と憧れの対象になっていた。腕が立つだけではない。家柄が優れているからというだけでもない。ナイマッハの騎士は街の騎士とは一線を画していた。
――伯爵様に仕える騎士は、伯爵様のために働けるのだ。
元来、ホドの騎士はその土地を治めるガルディオス家に仕えていた。しかしこの街はガルディオス伯爵のものではない。街の騎士団はあくまで街の治安維持のための組織でしかなく、ガルディオス伯爵を守るものではなかった。
そのことを理解したアシュリークは幼心に決意した。自分がなるべくはホドグラドの騎士ではなく、ガルディオス伯爵に仕える騎士なのだ。あの姫君然とした小さな伯爵様を守るのが自分のすべきことなのだと信じ込んでいた。
幸い、街が整備されると塾という教育機関も設立された。十二歳以下の子どもは週に一度は通って勉強をするようにと伯爵からのお達しがあったときは大人たちは呆れ顔をしていたが、アシュリークにとってはまたとない機会だった。
アシュリークは孤児だ。伯爵に仕えるような騎士になるために勉強をする、そんなお金を出してくれる保護者はいなかった。だから塾で無償で勉強できるのというのは幸運でしかなかったし、家業の手伝いをする必要もないので毎日のように通いつめた。読み書きから始まって簡単な計算、そのうちに歴史から教養の文学、果ては譜術や剣術までも学ぶことができた。優秀な者は騎士団に取り立てられたり、大学に通うための費用を街から補助してもらえるのを見て大人たちもようやく子どもを勉強させる意義を理解したらしい。数年経つと街のほとんどの子どもたちが通うようになっていた。
その中で、アシュリークは自分が一番だと思っていた。一番努力して、同年代の中での試験の成績の総合トップは譲らなかった。剣だって筋がいいと褒められている。今は体格差で年上に負けているが、それでも強いと認められていた。
――ガランが現れるまでは。
ガランはアシュリークよりも小柄な少年だった。身なりは特別いいものではなかったが、話している雰囲気は妙に落ち着いていて――何か、特別なのだとアシュリークはすぐに感じ取った。
それは勘違いでないと、思い知ったのは剣術の授業でだった。ガランは自分よりもずっと身長の高い、ほとんど大人の体格に近い少年たちをあっさりと伸してしまった。言わずもがな、アシュリークも敗けた。剣術だけではない。譜術も史学も、何もかもがガランに及ばなかった。
「なんでだよ」
どうして、こんなに努力しているのに。ガランは週に一度しか塾に来ない。つまり最低限しか塾に通わない、不真面目な生徒だった。そのはずなのに、どうして。
ガランは特別なのだと考えるのは簡単だった。ガランとエドヴァルドが共にいたところを見たという者もいた。エドヴァルドと一緒にいるということは、騎士の家系なのかもしれない。だったらアシュリークより優れているのは才能の差だろうか。
それでも。
アシュリークは諦めなかった。だって、「特別」なだけのやつに負けたら伯爵の騎士にはなれないのだから。どんな相手でも勝たなくてはいけなかった。
「ガラン!相手しろ!」
そうやって捕まえると、ガランは最初は目を丸くしていたがじきに慣れたようですんなり稽古の相手を務めてくれるようになった。アシュリークのしつこさに年上の子どもたちだって嫌な顔をするのに、ガランはそんな素振りを見せたことは一度もなかった。
「踏み込みが甘い」「持ち方に癖がある。矯正したほうがいい」「今のは左から攻めたほうがよかった。どうしてか分かるか?」教師のように、いやそれ以上にガランは適切にアシュリークを指導してくれた。やけくそになって砂で目潰しをしたときは「それでいい」と笑うようなこともあった。そんな二人を見て他の子どもたちもガランに手合わせをしてもらいたがるようになったのは誤算だったけれど。

「今日は私は相手をしない」
ガランがそう言ったのは唐突だった。「ええー!」と子どもたちから残念そうな声が上がる。アシュリークも同じ気持ちだった。
「代わりにアシュリークがする」
「は!?」
「ほら、最初はルゥクィールとだろ?早く向かい合って」
「えー、リークと?まあいっか。早くやろ!」
「ちょっと待てよ、どういう……」
困惑している間にルゥクィールが「スキあり!」と剣を振りかぶってきたのを慌てて躱す。二発目も躱して今度はこちらから仕掛ける。無防備な喉元に切っ先を突きつければすぐに勝負はついた。
「あーあ。負けちゃった〜」
「何なんだよ、一体」
ルゥクィールはすばしっこいが、アシュリークの方が反射神経はいい。そんな苦労する相手ではなかった。何でわざわざ相手をしなきゃならなかったんだ、と内心毒づいていると「ちょっと!」と甲高い声がかかる。
「ちゃんと言ってよね!」
「はあ?何をだよ」
「どこがよくてどこがダメだったかだよ!ガランはいつも言ってくれるんだから」
アシュリークは瞬いて、ルゥクィールの顔を見てからガランに視線をやった。少し離れた場所で見守っていたガランはにやりと笑った。
「そうだぞ、アシュリーク。ちゃんと省みないと意味がない。お前はどうして勝てたんだ?」
どうして勝てたか?そんなことを考えたことはなかった。自分の方が強いから、じゃないのか。
「……ルゥは奇襲を失敗したときのことを考えてなかった。素振りも大振りすぎてスキだらけだったから、最初さえ避けたら仕掛けるのは簡単だったし」
「そうだな。でも不意打ちってのはよかったな、ルゥクィール。次はどうやったら不意打ちが成功するのか、失敗したときはどう対応するのか、考えるといい」
「えへへー、ほめられた!じゃ、次はリンデね」
「またオレかよ!」
次から次へと相手をさせられて、しかも分析もしなくてはいけない。頭がパンクしそうになりながら、アシュリークは剣を振るった。最後の方はいつもよりもずっと動きが悪かったと自覚せざるを得なかった。
「おつかれ。最後は私とやるか?」
「今日はもういい……」
地面に倒れこんだアシュリークにガランが冷たいままの水筒を渡してくる。わざわざ取ってきたのか、とぼんやり思った。
「なんだって今日はこんなことしたんだよ」
「え?」
心底不思議そうな顔をするガランはなんだかいつもより幼く見えた。そして当然のように言う。
「アシュリークがしたかったと思ったんだけど」
「……オレが?」
「うん。だって強くなりたいんだろ」
アシュリークは瞬いてその意味を考えてみた。そしてようやく、ガランと同じことをさせられていたことに気がついたのだった。


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