リピカの箱庭
幕間08

自分の世界がどれだけ狭かったかを知ったのは、9歳になる年だった。
ティアは文字通り箱庭の中で暮らしていた。その箱庭には空がなく、街を出れば障気の海が広がっている。兄はかつて外殻で暮らしていたと話してくれたが、ティアは生まれも育ちもユリアシティだ。なのにユリアシティの人間はティアを余所者として扱う。兄が神託の盾騎士団の士官学校へ入ってしまってからは自分も外殻へ行きたいという気持ちが強まったのはこの息苦しい街の居心地がお世辞にもよくなかったからだ。
外を知りたかったわけではない。兄が語る外殻の話はティアの胸を弾ませたが、なによりも兄のそばにいたかった。唯一の家族は年が離れていたこともあり、兄であったと同時に父親のようでもあった。
だから、その日急に外殻に連れていかれて――その行き先が兄のいる神託の盾騎士団でないと知ったとき、ティアは当然抵抗した。
確かに「ガルディオス伯爵」の話を兄から聞いたことはあった。お前が仕えるべきお方だ、と兄は言ったが、ティアにとっては関係なかったのであまり真面目に聞いてはいなかった。ティアがそばにいたいのは兄だけで、そのガルディオス伯爵に兄が仕えていないのならただの他人なのだから。
「ガルディオス伯爵」が想像よりずっと若い少女だったことには驚いたが、それでもティアの心は変わらなかった。だからはっきりと言ってやったのだ。
「私、自分が貴族だとか知らなかったんです。だから、えっと……無理です!」
目の前のその人を相手に言うのは少しばかり勇気が必要だったが、顔を上げて見ると怒ってはいなさそうだったのでティアは安心した。祖父は慌ててなにか言い繕っていたが、これで大丈夫だろう。そう思っていたのでガルディオス伯爵が「二人で話をしましょう」と言い出したのには焦った。
伯爵は自分のことをメシュティアリカ、と耳馴染みのない名前で呼んだけれど、その声で呼ばれるのには違和感はなかった。声色は優しく、けれどそれだけではなかった。兄のような落ち着きか、祖父のような威厳か、そんな――大人のような色を備えている。
一見関係ない雑談から入った伯爵は、気がつけばティアの心のうちを暴き出していた。何より驚いたのは彼女はティアに貴族として自分に仕えることを強要しなかったことだ。そのくせホドグラドへ連れて教育を施すというのだから、何を考えているのかわからない。もしかして自分を騙して連れて行ったら最後、もうダアトへ戻らせてもらえないのではないか――そんな考えも頭をよぎったが、すぐに霧散した。ガルディオス伯爵が自分に嘘をつくとはなぜか思えなかったからだ。
不安だったのはホドグラドでどうやって過ごすかということだった。幸いと言っていいのかわからなかったが、導師の崩御とタイミングが重なったためすぐにはマルクトへ渡れず、その間にティアはジョゼットと打ち解けることができた。
ジョゼットは伯爵よりもいくらかだけ年上の若い女騎士だったが、ティアにとっては十分に大人に見えた。凛とした佇まいは伯爵ほど近寄りがたくもなく、憧れさえ抱いた。何よりも兄が神託の盾騎士団に所属しているという共通点がティアの心を無防備にさせた。
もう一人の騎士は常に無表情に伯爵に付き従っており得体の知れなさが勝ったが、ジョゼットのようになれるのなら騎士の訓練というのも悪いものではないかもしれない。ティアは胸を弾ませながらマルクト行きの船に乗ることになった。

「ミリア様……?」
溢れそうなほどに目を見開いて、ティアの母の名前を呼んだのはグランコクマで待っていたガルディオス家の騎士だった。ティアのフェンデ家と並び立つ騎士の家の当主はティアの母のことも知っていたようだった。すぐに我に返った騎士は誤魔化すように咳払いをしてティアの視線に合わせて膝をついた。
「失礼した、メシュティアリカ嬢。……あなたは母君によく似ているな」
「そう、ですか?」
そんなことは兄にも祖父にも言われたことはなかった。だが細められた騎士の瞳が嘘をついているとも思えない。
「ああ。ナイマッハ家の当主としてフェンデを継ぐあなたを歓迎しよう」
騎士になる気はないティアはその言葉に焦ったが、今回は口をつぐむことにした。約束をした相手は伯爵なのだから、伯爵がこの騎士を説得してくれるのだろう。多分。
その騎士の妻は同じく伯爵家に仕えている秘書で、その大きな腹にティアは驚いた。身近に妊婦がいなかったこともある。まじまじと大きくなったお腹を見つめるティアにロザリンドは微笑んだ。
「触ってみる?」
「いいの?」
思わず素で聞き返してから慌てて「いいんですか?」と聞き直した。ロザリンドはくすくすと笑う。ティアの後ろで伯爵が口を開いた。
「メシュティアリカ、あなたには子守もしてもらうつもりです」
「えっ!」
「常にとは言いませんよ。ですがこの屋敷で暮らすのならナイマッハの子もあなたの弟妹のようなものです」
「ていまい?」
「弟か妹ということよ」
ロザリンドがティアの手を取る。ふと、ティアは思った。自分を抱えて魔界に落ちたとき、母もこんなふうだったのだろうか。
――母とはこんな瞳をするものなのだろうか。
手のひらはあたたかい。どくどくと脈打つ皮膚の下で小さないのちが動く気配がして、ティアは泣きそうになりながら破顔した。


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