深海に月
16

息が苦しかった。
走って、いつの間にか町の外に出ていた。町ができていたことに驚く余裕もない。外にはあの大きなクジラがいて、エステルはまだ町にいるんだと思った。エステルだけじゃない、パティさんもいたのだから、凛々の明星のひとたちはみんないるだろう。
「はやく……」
帰らないと。あの線は絶対にオーマの仕業だった。オーマは地上の人たちを憎んでいる。全てを滅ぼすだろうということは簡単に想像がついて、それを止めないといけないと強く思った。
でも、どうやってあの場所へ行くというのか。船もない、空を飛ぶクジラもいない。フレンに頼るわけにもいかない。だって忙しいのだから、わたしが自分でちゃんとなんとかしないと。
「ザウデに行くのか」
不意に声をかけられてわたしは顔を上げた。赤い瞳が細められてわたしを見ていた。
「……剣持つひと」
その手にはあの剣がある。やはり胸がざわついたけど、いやなざわつきではなかった。どうしてこのひとがここにいるのか、わからない。そのひとがいることだけが妙に現実味を帯びていなくて、わたしは彼の後ろに大きな生き物が――魔物がいることに気づくのが遅れた。竜の姿をしたそれは始祖の隷長ではないだろう。でも、近しいものだった。
「お前がいなければ星喰みには届かないだろう」
「……星喰みに、とどく?」
剣持つひとは答えなかった。ただ魔物の背にまたがってわたしにも乗るように視線でうながしてきた。このひとが本当にザウデに連れて行ってくれるのか、いや、連れて行ってはくれるだろうけど行っても本当にいいのか。急に迷いが生じて、でも時間がないことはすぐに分かった。
「レティシア!」
「って、デューク?!」
聞こえてきたのはフレンと、ユーリさんの声だった。ラピードが彼らに先行して走って、追いつかれてしまう。わたしは慌てて剣持つひとの手を取った。
「レティシア!待つんだ、行くんじゃない!」
「フレン……」
呼び止められて、逆に決心がついた。わたしはここにはいてはいけないのだから。もうどこにいたって怖いのなら、オーマのいるところに戻ったほうがいい。逃げ出したわたしを探しているのなら、責任を取るべきだ。
「行くぞ」
わたしが黙っている間に剣持つひとがそう言って魔物は空に飛びあがった。強い風と冷たい空気に身震いする。ぐんぐんと空高く上がっていって、フレンたちの姿はすぐに見えなくなった。


「戻ったか。レティシア」
ザウデにはもう騎士のひとたちはいなかった。いるのはオーマだけだ。わたしの初めて見るオーマは、伝令のひとが言っていた通り異形の姿をしていた。オーマは最初は人間だったのに、どうしてこんな姿になってしまったんだろう。
――わたしは、人間のままなのに。
「オーマ、何をするつもり?」
「決まっておろう。憎き裏切り者を滅ぼし尽くすのだ。お主とて同じであろう?千年前の恨み、忘れたとは言わせぬぞ」
「……わたしは、そんなの知らない」
首を横に振る。わたしは知らないのだ。千年前にどうやってオーマがここに閉じ込められたのか。千年間どうやってオーマが憎しみを募らせてきたのか。なのに、なのにだ。
「やはり記憶の引継ぎが上手くいっておらぬのか。まあよい、お主さえおればなんとでもなろう」
怖い。やっぱりという気持ちが芽生えていた。わたしは普通じゃない。「外」のひととは違う。エステルみたいな満月の子とも違う。「街」のひととも違う。オーマでさえわたしと違った。
「記憶の引継ぎ――なるほどな」
黙っていた剣持つひとがぽつりと呟く。オーマはじろりと彼を見て、その剣に目を留めた。
「それは宙の戒典か。その方が我の封印を解き放ったのか?」
「いいや。だが、お前にはあの星喰みを滅ぼす手立てがあるのだろう?」
だから邪魔はしないと剣持つひとは言った。オーマは満足げに喉を鳴らす。
「当然であろう。よい、レティシアを連れてきたその方に免じてまずはあの目障りな星喰みを撃ち滅ぼしてくれよう」
「ならばさっさとすることだ。邪魔が入るだろうからな」
剣持つひとはそれだけ言って背を向けてしまった。しかし、邪魔とは一体何だろう。気になったけど、オーマが星喰みを滅ぼす手立てがあるというのも見過ごせなかった。
「オーマ、星喰みを滅ぼすって、どうやって……」
オーマは「外」のひとを憎んでいる。でも、星喰みを滅ぼす力があるのなら、それを止めるのが正しいかはわからない。
「此方に来い」
オーマがいるのはザウデの一番真ん中だ。それはわたしにも分かった。剣が――剣持つひとの剣と同じ形の、でもそれよりもずっと大きな剣が空を向いて立っている。星喰みに向けた光の線はその先からほとばしっていた。
「残された者どもの力ではこれが限界であるがな。お主の力さえあれば星喰みにも届くであろう」
残された者……?わたしは一瞬考え込んでから顔を上げた。
そうだ、このザウデはもともと満月の子を生贄にして動く魔導器なのだ。そのシステムを、オーマがどう利用したか――考えついてしまって、背筋に冷たいものがつたった。
「街のひとを使ったの!?」
「この後に及んでそのようなことを宣うか、レティシア」
無知を嘲笑うような、哀れむようなそんな声に表情すらわからないオーマがどんな顔をしているのか分かった。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
不意に強い風が吹いて、わたしは悲鳴をあげそうになった。始祖の隷長――あのクジラが空に見えたからだ。どうして、と思うと同時に理解していた。剣持つひとが言っていた邪魔とは、凛々の明星のことだったのだ。
確かにオーマは脅威だ。ひとびとを滅ぼそうとしている。だから、彼らが来るのは何もおかしくない。
「レティシア!」
でも、フレンが来るのは――来るなんて、思わなくて。
わたしは何も考えたくなくって、オーマの隣へと駆け込んでいた。


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