深海に月
14

息が切れる。わたしはただ必死に目の前の魔物に魔術を撃つだけだった。
だってもう、わかるのはわたしが退いてしまったら魔物が他の人を傷つけるだろうということだけだ。怪我をした人がもっと怪我をしてしまう。魔術を使うこと自体は疲れなかったけど、魔物相手に立ち回るのは大変だった。視界が霞む。いつになったら終わるのか、わからない。
わたしは気づいてなかったけど、訓練を積んだ騎士とわたしとでは戦場でのストレス耐性が全然違った。いつもと違う場所で、もう倒れてしまいそうなくらい疲れていて。気力だけで立ってるなんて長く続くわけがない。
「お嬢さん!」
騎士の誰かが叫んだ。わたしは一瞬意識が飛んでいたのに気づかずに、魔物がありえない速さで接近してきたのだと思った。あ、と口にする暇もなく衝撃が襲ってくる。体が吹き飛んで、気づけば地面の上だった。
「レティシア!!」
誰かが叫んでいた。知っている人の声だ。誰だろう、と視線を動かすと、桃色が映った。外にはほとんどいない桃色の持ち主の表情はわからなかった。
「レティシア!?くそ、遅かったか!」
「ユーリ、フレン!そっちは終わったの?」
「ああ、見たろ。でも今は――」
声が遠い。お腹のあたりが痛かった。痛くて熱い。うまく動かない手で押さえるとぬるりとしたものが指を汚した。
「すぐ治します!お願い、レティシア、」
「待って!」
これは血だ。わたしは自分が怪我をしたのだとようやくわかった。その瞬間に指先が冷えていく。わたしは――。
「ジュディス……?」
「だめ、駄目よエステル。その子は――」
「うそでしょう?嘘ですよね?」
エアルの扱い方はわかっていた。オーマが教えてくれたから、あの剣を持つひとができると言っていたから。わたしにはわかっていた。だから大丈夫。このくらいの傷なら大丈夫。自分に言い聞かせる。
「レティシアは私と同じ満月の子です!同じなんです!だから、だから!」
「違うわ。その子は満月の子じゃない」
誰かが言う声は聞こえなかった。不自然に指先に力が入る。わたしは、いつものようにエアルを感じ取っていた。
「"つきぬちからよ、いやしとなれ"」
唇から言葉が漏れる。わたしはいつの間にか閉じていた目を開けた。もう大丈夫。怪我は治ったから、平気だ。
「その子は――始祖の隷長よ」
エステルがいる。フレンがいる。ラピードがいる、ユーリさんがいる。ジュディスさんも、パティさんも、わたしが知らない人もいた。
その誰もが、わたしを恐ろしい目で見ていた。
「――」
一瞬混乱する。どうして、と思った。でもやっぱり、とも思った。
わたしはここにいてはいけなかったんだ。「外」に出たらだめだったんだ。そんな気持ちが渦巻いて強くなる。血にまみれた手では誰かに助けを求めることだってできない。
「レティシア!」
だからその人が近づいてくるのも怖かった。でも、嬉しさもあった。上体を起こして、どうにか後ずさろうとする。でも肩を強く掴まれて、わたしは頬に触れたつめたい金属の感触に瞠目した。
「すまない、僕のせいだ……!」
「ふ、れん?」
「怖い思いをさせてごめん、レティシア、ごめん」
なんでフレンが謝っているのかわからなかった。ぼやけた視界でフレンを見上げる。汚れた籠手につつまれた指先がわたしの頬をぬぐった。どうしてそんなことをされたのか、わたしはようやく気がついた。自分が泣いてることさえわかってなかったんだ。
「ぇ、っふえ、ええええっ」
気づいたらびっくりするくらい抑えられなくなってわたしはフレンにしがみついた。さっきまで忘れていた恐怖が津波のように襲ってくる。怖かった。執拗に襲撃を続ける魔物も、騎士の人たちが怪我をして倒れてしまうことも、得体の知れない自分のちからも。空から覗くばけものも、みんながわたしを見たあの目も。
「ごめ、ごめんなさ、わたし……」
しゃくりあげながらだとうまくしゃべれなかった。フレンともう一人、わたしの背中を撫でていたのはエステルだった。大丈夫だと、そう言わんばかりだったけど、わたしは大丈夫じゃなかった。
「まち、かえるからっ」
帰らないと。わたしはここにはいられなかった。そう強く思って、手のひらをきつく握りしめる。
「かえるから、ゆるして、」
嫌いにならないで。わたしのことを、そうやって見ないで。わたしが好きでいることはどうかゆるしていて。
怖くてたまらなかった。一番安心できるはずのフレンがいてもちっとも安心できないことが怖かった。そしたらわたしは、この先どこにいたってずっと怖くてたまらないままなんだろうと思うとそれも怖かった。
「君は悪くないよ」
ううん。わたしは悪かった。
あの街から出たわたしは悪かった。ここにいてはいけなかった。わたしはみんなとは違うのだから。
うまく喋れなくてそれがもどかしい。フレンが忙しいこともさっぱり忘れたわたしは、フレンにしがみついたまま鼻をすすって目を閉じた。


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