リピカの箱庭
45

イオンと共に来た道を戻る。どうやら私がイオンを見つけて説得し連れ戻したと認識されたらしく、詠師トリトハイムにはしきりに感謝されてしまった。別にそんなつもりはなかったんだけど。
居室に招かれたが、イオンと話せたのはほんの短い時間だった。私はジョゼットとメシュティアリカを待たせているし、イオンも勝手に抜け出したので処理すべき仕事があったからだ。まあ、そんな話が弾む間柄でもないのだけど。
「式典にも来るんだろ」
帰り際に訊かれて私は頷いた。
「そうですね」
「終わったら、マルクトに帰るのか」
見つめてくる視線が痛い。が、不躾であっても嫌悪の色はなかった。
もしや気に入られてしまったのだろうか。もしくは私のような存在が珍しいだけか。次期導師だったとはいえ、まだ幼いイオンがマルクトの貴族と会う機会なんて少なかっただろうし、私のような若い人間はなおさらだ。詠師の言っていたこともあながち間違いではなかったのかもしれない。
「帰ります。私はマルクトの貴族ですから」
「……マルクト、か」
イオンがぽつりと呟く。そのつぶやきに含まれていた感情を理解する前に私は部屋を追い出されていた。
そういえば、と思い出す。イオンは元々はマルクトの生まれなのだっけ。興味を示すのは郷愁の念もあるのだろうか。そんなことを考えながら今度こそ応接室に戻ってジョゼットたちと合流する。マティアスがずっとついていたらしく、ジョゼットはわかりやすく上機嫌だった。
「伯爵、滞在中の予定ですが……」
「マティアスの休みに合わせて休んで構いませんよ」
「ありがとうございます!」
顔を輝かせるジョゼットにこちらもいいことをした気分になる。最後にマティアスと約束を取り付けているジョゼットを見ながらヒルデブラントが呟いた。
「伯爵はジョゼットにも十分甘いと思いますよ」
「……否定できませんね。気をつけた方がいいでしょうか」
これでヒルデブラントが不平等を感じるのはよろしくない。そう思って尋ねるとヒルデブラントは首を横に振った。
「伯爵が我々騎士のことを気にかけてくださってるのはよくわかってます。なので全然いいと思います」
ぜ、全然いいのか。にこやかに言うヒルデブラントに逆に不安になったので、帰ったらロザリンドに相談しようと思った。彼女なら贔屓せずにきちんと意見を述べてくれるだろう。いや、ヒルデブラントが気にしていないのなら今はいいんだけど。

そんなやり取りののちに宿に戻り、明日の葬儀に備えることにした。メシュティアリカはジョゼットに頼んで散歩兼観光に外に連れ出させた。宿の中にいてはつまらないだろうし、いつの間にか二人がそれなりに仲良くなっていたので問題ないだろう。ジョゼットは塾でもそうだったが面倒見がいい。剣の扱いなんかはジョゼットに教えさせてみようかな。
「そういえば、伯爵」
私は私で宿で譜術の理論書を読んでいたのだったが、思い出したようにヒルデブラントが口を開いたので彼を見上げた。
「伯爵はあの魔物使いのことをご存知だったのですか?」
魔物使い――アリエッタのことか。私はどう答えるか迷ったが、頷いておいた。
「彼女は次期導師の守護役候補ですからね。噂は聞いていました。魔物に育てられた故に魔物と心を交わせるそうです」
「そうだったのですね。しかし、フェレス島の出身でしたか」
ヒルデブラントは視線を彷徨わせて小さく息を吐いた。何か思うところがあるのだろうか。ヒルデブラントのこんな態度は珍しいので私は本に栞を挟んで改めて顔を上げた。
「彼女は……彼女も、ホドグラドに呼ぶことはできないのですか」
も、というのはメシュティアリカとの対比だろうか。急にそんなことを言い出すので驚いたが、不思議ではない。フェレス島もまたガルディオス家の領地の一角であったし、被災者であるヒルデブラントがホドの住民だったアリエッタに同情し気にかけることはおかしくない。騎士の家系であるメシュティアリカと、おそらく平民出身のアリエッタが、その生まれの差だけでこんなにも違う境遇に置かれていることに思うところがあったのだろう。
「私の母はフェレス島の出身でした。もしかしたらあの娘の家族とも知り合いだったかもしれません。そう考えると、魔物に育てられたまま神託の盾騎士団などに利用されているあの娘が哀れに思えるのです」
利用、か。確かにアリエッタはその稀有な能力を利用されているのだろう。けれど彼女が哀れかどうかは勝手に決めていいことだろうか。
「アリエッタの価値観と我々の価値観は大きく異なるでしょう。彼女にとって魔物に育てられたことはアイデンティティの一つです。それを神託の盾騎士団で生かせるのならば、選択肢として正しいかもしれませんよ」
「しかし」
「ええ、あなたの言いたいことは理解できます。ですがホドグラドでは魔物との共存は難しいのは確かです。それに……彼女が次期導師との離別を望むかどうかわかりませんから」
私の言葉にヒルデブラントは眉をひそめた。
「次期導師の振る舞いは彼女にとって疎ましいものではないのですか。次期導師とはいえあんな失礼な」
どうやらイオンに良い印象を抱いていないらしい。いや、当たり前か。それくらい彼は無礼だったし、アリエッタに対しても優しいとは言えなかった。だがアリエッタはイオンのことを少なくとも好意的に見ているだろう。魔物としての価値観をも持つ彼女が、好意以外の理由でイオンのそばにいる理由はないと思う。
「では、アリエッタに直接訊いてみましょうか。明日の式典で会えるはずです」
「……彼女がもし是と言ったのなら、ホドに迎えることを許してくれますか?」
真剣な眼差しに私は迷ったが、頷いた。イオンが良しとするかは分からないが、それだけがアリエッタの選択を阻む理由にはなり得ない。むしろそのために動くのが私の役割だ。
「許しましょう」
さて、アリエッタはなんと答えるだろうか。――それが物語を狂わせる選択になるだろうか。
分からない、けれど私が知っている彼女の死は哀しいものだった。それを回避する選択肢がないのは、あまりに残酷ではないか。
「……」
栞を挟んだページを開いても頭に入ってこない。私はため息をついて、ヒルデブラントに紅茶を頼んだ。


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