リピカの箱庭
42

グランツ邸の外で待たせていたヒルデブラントは開口一番「まずいですね」と告げた。
「導師が危篤状態のようです。明日にも崩御されるかもしれません」
「というと、港が封鎖される可能性が高いですね」
ジョゼットが顎に手を当てる。導師の死となれば街全体が喪に服すだろう。つまりジョゼットの言う通り、一週間は港の動きが鈍ると思っていい。
導師エベノスの容体がよろしくないことは知ってはいたが、ここまで切羽詰まっていたとは。ヒルデブラントが掴めるほど情報が流れているとなると商人なんかが船を独占し始めているだろうし、今すぐに帰るというのは安全を確保するのが難しい。となると、この状況だけでも伝えるべきだ。
「ではヒルデブラント、エドヴァルドに速達で連絡をしておいてください」
「かしこまりました」
もともとダアトへは巡礼という名目で来ている。すぐ帰るつもりはなかったが、予定以上に長引きそうだ。
「しかし、困りましたね。メシュティアリカをどうするか……」
しばらく滞在することになるとすれば、グランツ邸から宿に移動してもらった方がいいかもしれない。グランツ市長もローレライ教団の最高指導者が亡くなったとなれば忙しいだろうし、ユリアシティから出てくることが恐らく稀なのであの屋敷に他に人がいるとも思えない。となると、早めに宿の部屋を追加で取っておいたほうがいいか。
「ホテルに呼ぶのですか?」
「そうなるでしょうね。部屋の手配をお願いします」
「わかりました」
ジョゼットが頷く。しかし、ダアトに着いてからジョゼットはなんだか落ち着きがないように見える。きょろきょろとあたりを見回していて、物珍しいがっているようにも思えるが、違和感がある。どうせダアト滞在が長くなるのなら、少し暇をやったほうがいいかもしれない。

ホテルに戻り、グランコクマとホドグラドへの連絡やら部屋の手配やらを終えて私はもう一度外で待機していたヒルデブラント向けにことのあらましを説明していた。反対するかと思ったが、彼は「そうですか」と頷いただけだった。
「伯爵の決定でしたら異論はありません」
きっぱりと言い切るのはいっそすがすがしい。ジョゼットが呆れたようにヒルデブラントを見ていた。
「本気ですか?伯爵はどう考えてもメシュティアリカ嬢に甘すぎます」
「私は貴族の生まれではないのでわかりかねますが」
ヒルデブラントはそう前置きした。確かに彼はグスターヴァスの養子ではあるが、出身は騎士の家系でもなんでもない。孤児だったところを優秀さゆえに取り立てられただけだ。
「フェンデ家の者として果たすべき務めを貴族として生まれていないメシュティアリカ嬢に強いるのは逆に厳しいかと。それに、彼女のような人間をこちらの懐に入れるのは危険です」
「危険?」
そんなことを言われるとは思っていなかったららしいジョゼットは瞬いた。私もそこまで考えていなかったのでヒルデブラントの意見に唸る。
「幸いホドグラドには優秀な人材が育っております。それも、伯爵への忠誠心が厚い者たちばかりです。それに引き換え、メシュティアリカ嬢はガルディオス家の騎士としての自覚もなく神託の盾騎士団への入団を希望している。無理にこちらに引き込んでひずみが生じたならば――」
「――そこに付け入る者がいてもおかしくない、ですか」
確かに、メシュティアリカを我が家の騎士にするメリットは薄い。貴族側の、血筋にこだわる視点を捨てればの話だが。私はメシュティアリカの将来と性格をだいたい把握していたので、ヒルデブラントの考えは興味深かった。
「まあ、それを言うのならここで迎えずともよいとは思いますけどね。投資しても実を結ばないと分かっているものに手間暇かける必要はありませんから」
バッサリ切り捨てるヒルデブラントに私は微笑んだ。腹の中でいろいろ考えているのに異論はないと言うのは諦めているのかこちらを尊重しているのかどちらかだろう。ヒルデブラントの場合は後者だと分かっている。
「そうですね。メシュティアリカに手間暇をかけるのは私の趣味ですから」
「ならばよいかと。伯爵にも趣味を楽しんでいただきたく思います」
趣味というと語弊があるが、似たようなものだ。私が彼女を放っておけないのはヴァンデスデルカからの手紙があったからで、つまり血筋ゆえだ。一番中途半端なのは自分だとわかっている。血筋にこだわるくせに、その血筋の責任にはこだわらない。もしメシュティアリカの将来を知らなかったのならば、同じことをしただろうか。
「犬猫を飼うのではないのですよ」
ジョゼットは眉をひそめるが、最終的には諦めたようだった。着替えるためにヒルデブラントに外に出てもらっている間に、私の背中のリボンをほどくジョゼットは落ち着いたトーンで囁いた。
「覚えてるかしら。あなたが私に騎士ではなく教師になってもいいと言ったこと」
「そんなこともありましたね」
ドレスを脱いで軽装に着替える。詰めていた息を吐いた。
「――選択肢を与えられることは、選ばなくてはならないということよ」
ジョゼットを振り向く。
「何かを選ばないことよ、レティシア」
メシュティアリカの場合は――貴族になることを選ばなかった、いや、それだけだろうか。そうジョゼットの視線が問うてくる。
「あの時は試されてると思ったのだけど、やっぱり違ったのね。あの子はきっと、何もわからないまま選ぶんだわ」
「ジョゼット、それは」
確かに私はジョゼットに教師になってもいいと言ったが、彼女がそこまで考えていたとは思わなかった。あの時は――そう、別に大したことを言ったつもりもなかった。他に適性があるのなら、騎士になる道を選ばなくてもいい。ジョゼットを手元に置く必要はあったが、それだけだったから。
私の手を取った時点でジョゼットは母の復讐を選ばなかった。では騎士になることを選んだ彼女を何を選ばなかったのだろう。
「――メシュティアリカは後悔するでしょうか」
私にはわからない。ジョゼットの方がきっと答えに近いはずだ。彼女は微笑んで「それはあの子が決めることよ」と分かりきったことしか答えてくれなかった。


- ナノ -