深海に月
ex-01

思えば、自分はレティシアという少女のことを何も知らなかった。
エステリーゼと同じ満月の子。アレクセイに利用されていたのだと思っていたが、彼女はアレクセイのことを何も知らないようだった。確かにアレクセイがレティシアを手元に置いていたなら、わざわざエステリーゼを使うこともなかっただろう。それならなぜレティシアはザウデにいたのかと考えたこともある。けれど、その謎を解く前にするべきことが山ほどあった。害を成す存在ではないことはよく分かっていた、ならばその力を悪用する者から遠ざけるために守ることが先決だった。
ユーリが見つからず、気落ちしたエステリーゼがレティシアを気に入ったのも城で保護する一因にもなった。どこかたどたどしい言葉をしゃべり、他の者との会話を億劫がっている節のあるレティシアもエステリーゼによく懐いていて、彼女が下町に治療するのについて行っていた。その間はよかったが、エステリーゼが戻ってきたユーリについて旅に出てしまうといよいよ彼女の警護を名目に軟禁状態にするしかなかった。
それは、かつてのエステリーゼと同じ状態だった。
エステリーゼは皇族であるが、レティシアはそうではない。そして満月の子の力がどう悪用されるかというのも知らなかった。だから星喰みの眷属の襲撃があったときに彼女が勝手に抜け出しても、一人でその力を用いて治療をしても、フレンは叱ることができなかったし、むしろ罪悪感すら抱いた。
だからだろう。彼女が騎士団の任務についていくと希望するのを無下にはできなかった。そう危険な任務ではない――楽観的に考えた自分は間違っていたし、時間が戻せるなら戻すだろう。
結界魔導器の外の世界は荒れていた。後から思えばそれまで魔物を統制していた存在であるところの始祖の隷長がアレクセイの手で狩られたのも一因だったのだろう。
船団は魔物に襲われ、フレンは一度死を覚悟した。魔物によって揺らされた船から落ちていくレティシアに手を伸ばし、同時に自分も甲板から放り出されていた。
腕の中のこどもを抱きしめる。海の中で自在に泳ぐ凶悪な魔物の前で彼女を守り切れるかどうか。咄嗟に魔術の詠唱を唱えようとしたところで、レティシアの唇から何かの音が漏れた。
「――」
それは何のことばだったのか、何を意味するものだったのか、フレンが理解する前に目の前が真っ白になった。レティシアのまわりに集まるエアルによる光だと、分かったのは海に落ちてからだった。そこにはもう魔物はおらず、レティシアが今の魔術で魔物を追い払ったというのは明らかだった。
一瞬の出来事だったが、フレンは甲板に引き上げられるまでの間ずっと思考を巡らせていた。咄嗟に嘘をついたのはレティシアに向けられるその視線――奇異や、畏怖や、恐怖や、嫌悪が入り混じったそれが許せなかったのもある。もともと彼女は騎士団長と次期皇帝の権限によってこの任務に同行することになった存在だ。ひとまずはエステリーゼと同じ皇帝の遠縁とされていたが、訝しんでいるものも少なくない。そんな彼女が発揮した力は否が応でも「あのときの」エステリーゼを想起させるものだった。
いや、同じではない。明らかに違うもので、しかし、人智を超えるという意味では同じだった。そこでフレンは改めて最初の疑問を自問することになる。
レティシアは一体何者なのか。
アレクセイの手駒として育てられた満月の子では、おそらくない。皇帝家が把握している血筋でもない。それにしては彼女の力はあまりに強く、エステリーゼと並び立つくらいだ。臣籍に降りた皇帝家の血筋の末裔がたまたまそれほどの力を持っていたとしても、アレクセイが関わっていないのならザウデにいた理由が分からない。
初めて会ったとき、レティシアは自分はザウデの「下」からきたと言っていた。「下」とはつまり「南」、ノードポリカだと思ってたが――それは正しいのだろうか?
直接彼女に訊ねるべきだったが、状況がそれを許さなかった。大陸に漂着しても騎士団は厳しい状況に置かれたままだったからだ。
救援が来ると信じて、踏ん張り続けなければならない。そしてそのためなら手段を問うている場合でもない。騎士団は誇り高く、民衆を守らなければならないのだから。アレクセイの謀反を経た後の騎士たちはそんな志を以前よりも高く持ってはいたが、先行きの見えない状況では不安が蔓延していた。
そして人手が足りないということも誤魔化せなくなってきた。魔術を使える者ならば後衛に回ってほしい。救護室近くまで来た魔物相手に魔術で応戦していたこどもの姿を目撃した騎士がそう言ったのも当然だった。後衛に回ってもらえるのなら、そこでの治癒も可能だ。効率的で、だが危険だ。
「……分かった」
自分の立場が厭になる。望んで手に入れた権力が煩わしくなる。そう思う自分が情けなくなる。アレクセイの謀反後、ただ一人その地位にふさわしい騎士として称賛されたが、それが正しい評価でないことはフレン自身が分かっていた。自分の功績の半分以上がユーリと彼の仲間によるものだ。そして今生きながらえているのは、レティシアという幼い少女が――たとえ偶発的でも――その秘めた力を発揮したからだった。
権力を得ることができたのなら、何も犠牲にせずにいられると考えていた。力を手に入れたのなら、自分一人で背負うことができるのだと夢想していた。だが現実は違う。フレンは常に誰かの力を借りている。頼っている。今だって、ただ救援を待っている。そうすることしかできないでいる。
「レティシアを後衛に回してくれ。騎士団のローテーションに組み込めばいいだろう」
決断を下すのは自分だ。力を手に入れたのなら、なおさらそうだった。

フレンにとって救いだったのは、そのすぐ後に救援が――凛々の明星が自分たちの前に現れたことだった。


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