深海に月
13

広大な海。ひとの生きる結界魔導器から離れた世界。そこにいたのは統制を失った魔物の群れだった。
きっと移民団だけではあっという間に全滅していたと思う。かろうじて死者が出なかったのは騎士団がついていたからだ。
逃げ場のない海の上で、水面下から魔物が突っ込んでくる。どうにか大陸への上陸を試みていたけれど、このままでは持たないことはわたしにもわかっていた。
「レティシア。君はソディアたちと脱出するんだ」
したところでどうなるのだろう。指揮をとっているフレンはここから退くことはできない。助けを呼ぶ?いつくるかもわからないのに。誰がくるかも、解決するかもわからないのに。
フレンに諭されてもわたしは首を縦に振れなかった。
「治癒できるひと、多いほうがいいです」
「しかし、ここはあまりに危険だ」
「だから、です」
わたしはフレンを見上げた。空色の瞳が曇っていてもわたしは頷けない。
「わたし、そのために来たです」
治癒術師は怪我を治すためにいる。怪我人が出るような場所は危険に決まってる。
「レティシア……」
「それに、フレンがいるから、大丈夫」
矛盾している、でもそう思った。フレンがいれば大丈夫だと思う。彼が指揮をとっているからみんな持ちこたえている。みんなフレンを信じてる。
フレンは口を開いたけど、何かを言う前に他の人に呼ばれてしまった。心配そうにこちらを見ながら行ってしまったフレンを見送って、わたしは船室に戻った。
怪我人が並んでいる光景は心臓に悪い。星喰みの眷属の襲撃のときよりもはるかにひどかった。それでもわたしのやることは変わらない。治癒の力を役立てるだけだ。
そうして働いていると外から悲鳴が聞こえた。顔を上げる。急いで船室の外に出ると「逃げろ!」と呼びかけられる。
「魔物がこっちに来ている!」
そんな。船室にはまだ動けない人もいる。騎士たちを振り払って、何かに取り憑かれたようにこちらに突進してくる魔物たちにわたしは拳を握った。
「――"聖なる眷属よ"!」
光の球が浮かんで、前みたいに、いや、それ以上の火力で魔物を攻撃する。それだけじゃ足りないのもわかっていた。
「"とらえよ、めっせよ"」
足止めした魔物を円の中に閉じ込めて浮かせる。地面から吹き出るエアルの攻撃にようやく魔物は倒れて動きが鈍くなった。それに駆けつけた騎士のひとがとどめを刺す。
「レティシア様!ご無事ですか!」
そう呼びかけてきたのはルブランさんだった。見知った顔があってほっとする。ルブランさんは大きな怪我をしていないことを確認して、わたしは頷いてあたりを見回す。
「けがしてるひと、治す、です」
「は、はい」
けれどすぐに船が大きく揺れて、なににも掴まっていなかったわたしは立っていられなかった。「レティシア様!」とルブランさんが手を伸ばしてくれたけど届かない。
甲板を転がってあっという間に体が浮いていた。船の外に放り出されたのだとわかって、あ、と口から間の抜けた音が漏れる。
浮遊感はすぐに重力に変わった。落ちる、船の外、魔物のひしめくそこに。
「レティシア!」
腕を強く掴まれた。そのまま軽々と持ち上げられたかと思ったけど、もう一度船が傾く。ぽろぽろとひとがモノのように甲板から投げ出されているのが見えた。そして、わたしの手を掴んだフレンも。
「ふ、れ――」
肺の中の空気がうまく出せなくて途切れ途切れの音がくちから漏れた。落ちる。近づくのは水面だ。なにもかもがゆっくり、ゆっくり動く。
水面の下の影もそうだった。おおきな魔物。船を揺らして、狩りをするそのばけもの。
フレンは、フレンだけじゃない、鎧を着た騎士の人たちが海に落ちたらどうなるか。わかりきっている。海の中で自由に泳ぐ魔物たちにとっては格好の獲物だ。
死ぬ。ここで、水面の下で、口を開けているばけものがわたしたちをくらう。
「――」
それは、そんなのは。
目を閉じる。わたしはどうすればいいのか、自分で勝手にわかっていた。力はそのためにある。まぶたの裏が白く光って、ちかちかと頭の中がかき乱されるようだった。
「レティシア――!?」
水面に叩きつけられて呻いたけど、衝撃はそれだけだった。いつのまにかフレンに抱きしめられていて、どうにか水面の上に出た口で息をする。目を開けてももうどこにも魔物の姿はいなかった。
「レティシア、今のは……」
「団長!」
鎧を外しながらフレンがなにか言いかけたけれど、別の声が頭上から降ってくる。あっという間に救助用のボートが下されて、わたしはびしょびしょになりつつもどうにか船上に戻ることができた。ほかに海に落とされた人たちも戻ってこれたみたいだった。
「からい……」
海の水は塩の味がする。ぶるぶると頭を振って水分を飛ばしているとタオルが被せられた。顔を上げようとしたけれど、タオルの上から手を置かれてそれもかなわない。ざわざわと、まわりから囁き声が聞こえてくる。その中のひとつがフレンに、明確に問いかけた。
「団長、先ほどの魔術は一体……」
「あれは殿下からいただいた魔導器だ。何かあればということで預かっていたが、まさか使うことになるとは」
「そ、そうでしたか」
殿下――ヨーデルからもらった魔導器?何の話だろう。軽くぽんぽんと叩かれてからフレンの手が離れていって、わたしはようやく顔を上げた。騎士たちはみんなフレンを見ていて、誰もわたしを見てはいなかった。
あれは、今のは。うそだ。フレンはヨーデルから魔導器なんてもらっていない。魔物はもう青い海の下にはいなくて、追い払ったのは他でもないわたしだった。フレンたちが大陸にどうやって上陸するか話し合っているのを聞きながら、タオルをもう一度被って視界を隠す。
わたしは一体何をしたんだろう。満月の子の力、なのだろうか。あれだけの魔物を一度で追い払う力なんてあるのだろうか。人間じゃない、それはまるで、ちがう生き物のような。
濡れた服が体温を奪っていく。背筋が凍る。
「オーマ」
名前をよんだ。その人だけが、わたしが「何」か、知っている気がした。


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