リピカの箱庭
37

微かにドアが開く音がした。ほんのわずかな音だったのに、まどろみから現実に引き戻される。気配は薄い。けれど誰何の前に、ひりつく殺気がその目的を私に告げていた。
「――」
ベッドから転がり落ちるようにしてその刃から逃れる。驚く気配を背にして立てかけてあった剣を手に取った。
「何者です」
まだ暗い中、暗殺者の顔はよく見えない。私は部屋の壁を鞘で強く叩いた。瞬間、再び振りかざされる暗器が頬を掠ったがどうにか避ける。けれどそれを読んでいたかのように腹に蹴りが入って反対の壁まで吹き飛ばされた。背中が派手に打ち付けられて息が詰まる。
「ッあ!う、く……」
「ここまでだな、ガルディオス伯爵」
低い声がかけられて、私は視線を伏せた。剣を握ったまま呼吸を整える。相手にはもう油断している気配はない。それでも、ここで死ぬわけにはいかない。そんな簡単に殺されてはたまらない。
「――一手で殺せぬのは失態でしたね」
「レティシア様!」
ドアが再び乱暴に開けられる。そのまま一直線に、剣が突き出されて暗殺者は飛び退くようにして部屋の隅に追いやられた。私は駆けつけた騎士の背に回ってドアを塞ぐ。これで相手に逃げ場はない。
「ご無事ですか、レティシア様」
「大事ありません」
ほとんど寝巻きの乱れた格好なのはお互い様というやつだ。エドヴァルドは私の無事を視線で確認すると剣を構え直し、暗殺者へと再び切りかかった。幾度か斬り合って流石に分が悪いと悟ったのか、暗殺者はバルコニーへ躍り出て逃げようと――いや、違う。私はとっさにエドヴァルドを呼び止めた。
「いけません!外にまだいます!」
「ッ!く、うっ!」
二人目の奇襲をすんでのところで交わしつつ、できた隙に斬りかかられて血しぶきが舞う。そして音素を紡ぐ詠唱が聞こえてきて私は必死にエドヴァルドの腕を掴んだ。こんな狭い部屋で譜術を避けるのは無理だ。
「――牢固たる守護を、バリアー!」
「エナジーブラスト!」
音素が引き起こす爆発をどうにか身を低くしながらやり過ごす。それでも部屋の外まで放り出されるほどの衝撃だった。
「お嬢様!」
「伯爵!」
同じく吹き飛ばされたエドヴァルドの背中に庇われたのでまだマシだったのだろうけど、痛みに呻いていると複数の声が聞こえる。一人はロザリンドだ。もう一人は――。
「カーティス、少佐」
目の前がくらくらする。おかしい、そんなひどい怪我はしていないはずなのに。頭を打っただろうか。体が熱くて気持ちが悪い。少佐はなぜここにきているのだろう。エドヴァルドは無事なのだろうか。敵はもう逃げてしまったのだろうか。少佐に追うように伝えようとしてもうまく口が回らなかった。
「いけませんね、毒を使われています」
「そんな!どうすれば……」
「本拠地は抑えてあります。第七音譜術士に解毒できずとも解毒剤はすぐ見つけ出せるでしょう。ひとまず安全な場所へ伯爵を――」
喋っている声が聞こえるのに意味がちっともわからなかった。布を被せられて目の前が真っ暗になる。ちがう、意識をうまく保てないせいで視界が黒く塗りつぶされたのだろう。私は誰かに抱えあげられるのを感じて意識を手放した。

ランヴァイルからもたらされたのは森の奥に潜んでいたのは間違いなく皇太子の権力を殺ごうという連中だということだった。それをカーティス少佐に伝えたのはそのすぐ後で、そこからどうなったかはよく知らない。明日にはケテルブルクを発つので片付けをして、それでホテルで眠ったはずだった。
ぼんやりしながら気づいたら知らない天井を見上げていた。気分が悪い。体は怠くて頭は痛いし、何かが足りない。
「レティシア様!具合はいかがですか?」
声に顔を向けるとロザリンドがいた。その後ろにも人が立っている。私はゆっくり瞬いて「ロザリンド」と呼んだ。
「エドヴァルドは」
「軽傷です。今は休んでおりますが、大丈夫ですよ」
「……そうですか」
いや、エドヴァルドではない。足りないのはもっと違う――私は自分の周りを見回した。ロザリンドに続いて低い声が何かを言っているのが聞こえた。
「――解毒はしたのだがしばらく残るようでな。どうも譜術を使ったせいで体内に拡散したらしい。悪いがしばらく安静にしていてくれ」
お父さまではない。ヴァンデスデルカでもない。私はその顔をじっと見て、やっぱり違うと思った。力の入らないてのひらを握りしめる。
「ガイは」
「ん?」
「ガイはどこ?」
体を起こそうとする。部屋で譜術を行使されたことを思い出して動悸が激しくなった。まさか、いや、そんな。私は差し出されたロザリンドの腕に縋り付いた。
「ガイはどこです。ロザリンド、ガイは」
彼がいないと眠れない。恐ろしく心細くなって私は泣きそうだった。
「ご安心ください、お嬢様。お持ちしていますよ。ほら」
だからロザリンドがすぐにぬいぐるみを差し出してくれたときは心底安心した。抱きしめて、泣きそうなくらいだった。ちゃんといてくれる。だから、大丈夫。ガイラルディアは生きている。
ぬいぐるみを抱きしめて安心した私は息を吐いて枕に頭を沈めた。体がずっしりと重い。でも、まだ意識を失ってはだめだ。どうにか口を動かす。
「グスターヴァスに、れんらくをしてください。それと……」
「お嬢様、大丈夫ですよ。ピオニー殿下もカーティス少佐もいらっしゃいます。安心してお休みください」
「……でも」
ロザリンドがなだめるように言うけれど、私は子どものように首を横に振っていた。私が、ガルディオス伯爵代理なのだから。自分でやらないと、だって。片手でぬいぐるみの手を掴む。
「おとうさまは……きいて……くださらなかった……」
手紙は届かなかった。ホドは沈んで戻らない。お父さまもお母さまもお姉さまも、あの頃のヴァンデスデルカも。もう戻らない。自分でやらなくてはいけない。ガイラルディアが戻るまで、私は、自分で――。
自分が何を言っているかもわからない。ただ、どうしようもなく苦しくって、もう優しい手が私を慰めてくれないことが悲しかった。


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