リピカの箱庭
36

片付けを終えて、ランヴァイルは言葉通り街の入り口まで私を送り届けると再び森の方へ向かって行った。ホテルの客室番号は伝えてあるし、何らかの報告を後で入れてくれるだろう。私は彼を見送ったあとぼんやりと街を歩いていた。もし、本当に反殿下派の人間が潜んでいるとしたら誰に伝えるべきだろうか。ネフリーさんの家にまだ少佐がいればいいのだけど。
ふと、どこかから視線を感じて顔を上げた。敵意……とはまた違ったもののように感じる。広場を抜けて歩くスピードを落とすと私は適当な屋敷の裏手に回った。そこで白い息を吐いて待っていると声が降ってくる。
「あー、なんだ。呼びつけるつもりはなかったんだが」
「……いらしていたのですか」
「まあな」
ずいぶんな軽装で現れたのはピオニー殿下その人だった。私は肩を竦めた。だって、あんなに見られていたら気になってしまうし、現れたということは殿下に話をしたいことがあったのだろう。
「寒いだろう。どうせなら中に入っていくか?」
「ここは……」
「俺の家みたいなものだ。昔、軟禁されてた場所だな」
随分と立派な屋敷だとは思ったけど、なるほど、そうだったのか。私は頷いて殿下の後ろに続いた。といっても入るのは正面の門からではなく、裏口とも違う抜け道のような場所からだった。
「よくここから抜け出してジェイドやサフィールと悪さしたもんだよ。ネビリム先生の塾に通ったりな」
「そうだったのですか」
「今となっては懐かしい思い出だ。レティシアに初めて会ったときもここから抜け出してグランコクマに行ったんだっけな」
屋敷の中は皇子殿下の住まいにしては少し殺風景で、調度品の類は少なかった。ただ、案内された殿下の部屋は少し違う。趣味の品と思われる剣が飾ってあったり、使い込まれた書き物机からはかつて住まわっていたその人の雰囲気が感じられた。殿下は私にソファをすすめて、自分は立ったまま机の天板を撫でて言葉を落とした。
「ここにいると思い出す。嫌でもな」
「……ネフリーさんのことを、ですか」
「会ったのだったか。いい女だったろう」
ピオニー殿下は今まで見たことのない表情を私に向けていた。皇太子然としていたときとは違う、弱ったような顔だ。大切な人を突然預言に奪われた、ただのひとりの人間だった。
「預言がなぜ正しいのか、卿に訊かれたことがあったな」
私は黙って頷く。殿下は顔を上げて私を見た。その宝石の瞳は翳って輝きを失っている。
「預言に詠まれたことは正しいと人々が信じている。――だから正しい。だから俺は皇帝になり、ネフリーを失うわけだ」
冷え冷えとした空気に私は微笑みを浮かべそうにすらなった。……まだ、この国を、皇帝を憎んでいるせいだろうか。国を背負うことになるその人に預言による支配を思い知る不幸が降りかかったことにほの暗い喜びが湧き上がる自分の醜さが嫌になる。ピオニー殿下は何も悪くはない、そのはずなのに。
「では、皇太子殿下。預言を覆せばよろしいでしょう」
私はそう言葉にしてしまう。自分にできなかったことを、目の前の権力者に求めてしまう。殿下は引き止めるように呼んだ。
「……ガルディオス伯爵」
「どうすれば良いのかお分りでしょう。ここに来たのだって、そうしたいからなのでしょう。あなたは力を振るえばよろしいのです」
だが、言葉を続けることを私は躊躇わない。そうだ、花嫁を閉じ込めてしまうでもいい。花婿の首を落としてしまうでもいい。無理矢理に覆す方法はいくらでもあるはずだ。
殿下は私を見る。私に期待していた言葉はそうだったのではないかとその瞳に視線を返した。話をしたいのではなかったのか。殿下は試されたいのだろう。誰かに、そう宣言することで自分の心を固めたいのだろう。
私はどちらだって構わないと思う。だって同じだ。私たちはどうしようもなく不幸せなまま生きている。重石を乗せるのなら、天秤はどちらかに傾くしかない。
「そうして失うものを切り捨てるのも、預言がささやかな幸せを奪うのと同じではありませんか」
「……そうだろうな」
低いつぶやきは感情を乗せて、けれど次の言葉からはそんな重さは拭い去られていた。
「そうだろうよ。だが――ここで感情的に動いてもどうにもならんのも事実だ。俺には仕事が残っているからな」
「……ネフリーさんよりも大切な仕事だと?」
殿下は答えなかった。多分答えたくなかったのだと思う。ネフリーさんの結婚を破綻させるのはきっと簡単で、しかしそのためにネフリーさんは自由を奪われるだろうし、結婚相手の人生も絶たれるか不自由するかだろう。そして殿下は預言を遵守しなかったというレッテルを貼られる。預言に支配されたこの国で、どんな扱いを受けるだろうか。たとえこのまま皇帝になっても先帝の臣下に傀儡にされるだろう。
殿下の仕事を果たすためには――真の意味でこの国から預言を取り除くためには、大局を見なければならない。皇帝になると詠まれたその人は、自分と愛する人の幸せ以上に求めるべき人民の幸福がある。それを、選んでしまう人だった。
「残念そうだな、レティシア」
殿下が目を細めて言うので、私は首を横に振った。
「いいえ、はい。ピオニーさまの求める幸福がその道の先にないことは残念でなりません」
「幸福、ね。それは充分に享受したと思っておこう」
強がりのように言う殿下に私はそれ以上何も言わなかった。自分を支える幸せな記憶だけで十分だと、それを糧にして生きていくことを選んだのならもうほしい言葉もないだろうから。
「さて、遅くならないうちにホテルに戻ったほうが良いだろう。送っていこう」
「殿下がいらっしゃると目立つので結構です」
「つれないな。ま、確かにそうだ」
結局屋敷の抜け穴の外まで送ってもらい、私は一人帰路につくことになった。
しばらく歩いてから屋敷を振り向く。――ピオニー殿下の言葉は、約束でもある。でも、きっと。果たされるその日まで、私は恨み続けてしまうのだろうと思った。私の家族を見殺しにした国の皇帝を憎まなくていい日が来ると少しでも思わせてくれるだけ、優しいひとだった。


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