リピカの箱庭
35

「これはこれはガルディオス伯爵!いらっしゃるのなら私めにご一報くださればお出迎えしたのですが!」
ホテルのロビーで大きな声をかけられて私は「はあ」とため息のような声を出した。髭を生やしたいかにもという雰囲気の貴族の男性だ。誰だろう。ええと、前に寄付を頼んだ人に……そうだ、ケテルブルク知事のヘイエー伯爵だ。ほとんどグランコクマに滞在している伯爵夫人とやりとりしていたので伯爵と会ったことは一度くらいだったはずだ。
「いいえ、おかまいなく。ただの休暇ですので」
しかし、何で私がここにいることがバレたのだろう。もしかしてホテルの台帳を見たとか?こんなかたちで流出するとは思わず、天を仰ぎたくなった。というかプライベートで来る貴族なんていくらでもいるだろうに、なぜ私だけこんな目に遭っているんだ。
屋敷に来いだとかなんとか誘ってくるヘイエー伯爵に私はちらりと後ろのエドヴァルドに視線をやった。無表情でヘイエー伯爵を見下ろしていたエドヴァルドが一歩進み出る。
「お誘い恐縮ですが、これから予定が入っておりまして」
「そ、そうでしたか。ならば夜はどうですかな」
「我が主にどのような席をご用意いただけるとおっしゃる?」
伯爵代理といえど未成年を夜の席に誘うというのは非常識では?という顔でエドヴァルドは冷たく微笑んだ。夫人を魅了することはできたエドヴァルドの営業スマイルだったが、ヘイエー伯爵のほうはたじたじになって何か口ごもっただけだった。
勢いを削がれたヘイエー伯爵を躱してやっとのことでホテルの外に出る。しかし、エドヴァルドについていてもらってよかった。昨日のカーティス少佐からの忠告についてはエドヴァルドにも伝えてあって、彼も悪いタイミングで来てしまったものだと頭を抱えていた。とはいえ新婚旅行の邪魔はしたくないし、帰るというのも避けたい選択肢なので私は裏技を使うことにした。つまり、ケテルブルクにいるかつてのホドの騎士を訪ねることにしたのだ。
ホドグラドの奥義会の名簿に名前のあったその騎士――ランヴァイルは難民としてケテルブルクに流れ着き、戦争が終わってもなおケテルブルクで暮らし続けている。今は傭兵として暮らしているようで、依頼として頼んでみたらあっさりと受け入れてくれた。シグムント派を継ぐ実力のある騎士だけあってホドにいたの頃エドヴァルドとも顔見知りだったらしく、私の護衛をしてもらうのにエドヴァルドも反対はしなかった。
で、せっかく訪ねるのだから奥義を教えてもらわないという手はない。エドヴァルドたちと別れた後頼んでみると連れ出されたのは街の外だった。魔物相手の太刀筋が見たいと言われて、雪の中で足を取られながら剣を振る。向かってくる魔物を一撃で地に転がして、私は息を吐いた。
「お疲れですか、レティシア様」
「いえ、まだ問題ありません」
剣の練習は嫌いじゃない。心が冷えて、集中すると何も他のことは考えなくていいからだ。肉を断っても、血が雪を染めても、ただ最適な一撃を考え続ければいい。譜術とはまた別の極めるべき一点がある。それこそがヴァルター・シグムントが、始祖ユリアとフレイル・アルバートを守るためにたどり着いた境地であるはずだ。

ランヴァイルから奥義まで教えてもらった後、魔物もすっかり狩り尽くしてしまったので私たちは焚き火をして一休みすることになった。彼は普段傭兵として暮らしているといっていたが、街の外の魔物を定期的に間引くのも仕事らしい。魔物を無意味に殺戮するというのも問題で、ある程度は残しておかないと魔物同士の食物連鎖が崩れて逆に街が襲われるということもありうるという話は興味深かった。たしかに、魔物も生物である以上生態系バランスは考えないとまずいだろう。
「これでも、街の役には立てているようでしてね。伯爵様の元へ馳せ参じるべきだとは思っておりますが、この街への恩というのも返しきれないほどあるのです」
戦争で故郷を失くした難民が生きていくのはどこでだって厳しい。ランヴァイルがその剣の腕を役立てたいのがケテルブルクの街ならば、故郷を守れなかった私が何をいう権利もないだろう。
「あなたは、あなたの思うよう生きてゆくべきです。主人を選ぶ権利を得たのですから」
「レティシア様」
彼は少し悲しそうに微笑んだ。私はそこまで優しくない。戻ってきてほしいのだと誰にだって言って、心を砕くことはできない。そんなことをしてしまえばあっという間に砕けた心を取り戻せなくなってしまうだろう。

そうやって話をしている間に、ランヴァイルは何か気になるのかちらちらと視線を森の奥にやっていた。どうしたのか訊いてみると彼は難しい顔をして答えた。
「普段と違う様子がしましてね。魔物もいつもはここまで襲ってこないのですが」
「魔物の様子がおかしいのですか」
「そうなります。これは私の推測ですが、魔物の数が減らされたのではないかと」
ふむ。つまり、何者かがランヴァイルのように魔物を間引いた?いや、それにしては様子がおかしいようなので、間引くことが目的とは思えない。
「……この辺りに小屋や屋敷はありますか?」
「古い小屋が森の奥にあります。今は誰の所有物でもないときいていますが」
「なるほど」
ランヴァイルと視線を合わせる。考えていることは同じだろう。
しかし、このタイミングとなると怪しいのはネフリーさん関連である。ケテルブルクはリゾート地で貴族や金持ちが訪れるので警備はそれなりに厳しい。反殿下派の人間が街の外に拠点を持っているというのはあり得る話である。反殿下一派がいる可能性があると軽く説明するとランヴァイルは眉間のしわを深めた。
「少し見に行ってみますか」
「それは……」
言い淀んだランヴァイルは少し考えてから首を横に振った。
「レティシア様は街までお戻りください。お送りいたします」
「一人で行くのですか?」
「偵察だけなら問題ないかと。後ほど報告に参ります」
「では、頼みます」
私が足手まといになるよりはそっちの方がいいだろう。ランヴァイルは頷いて、火の始末を始めた。私は冷たい空気を吐いて森を見つめる。仕方ない、大ごとになる前に潰すのが一番いいのだし。首を突っ込んでしまうのは大いに遺憾だけれども、火種を見つけて無視はできない。私も立ち上がってランヴァイルの手伝いを始めた。


- ナノ -