リピカの箱庭
29

久しぶりの屋敷は意外なほど静かだった。私はぬいぐるみだけを持って部屋に戻り、ベッドの上に置いてから執務室に移動した。
ロザリンドが淹れてくれた紅茶で一息つく。そして今か今かと待ち構えていたエドヴァルドに視線をやった。
「――旅券について、証拠は掴みました。ですが釣れたのは小物です。さすがに末端で切られたようですね」
「こちらも、夫人に接触しようとしていた者を捕えましたが同じような状況です」
ふむ、しかし叔母様に接触したがったのはキムラスカの手の者だけではないだろう。マルクトも一枚岩ではない。なにせ今の皇帝陛下はずいぶん好戦的な外交を進めているのだ。反対派が叔母様に手引きさせようとしていてもおかしくない。
「そうですか。ジョゼットお姉様はどこに?」
「ホドグラドの屋敷に行かせました。今は騎士見習いをしています」
「……騎士見習い?」
思いもよらない発言に思わず瞬いてエドヴァルドを見つめてしまった。一応、ジョゼットお姉様も貴族の令嬢なんだけど。
「すぐ根を上げるかと思いましたが、案外馴染んでいるようですよ」
「はあ。……なるほど、まあそうですね。彼女にいつまでも貴族であってもらっては困るのはその通りです」
少なくともセシル伯爵家の人間のままでは困る。騎士ならば最終的にそれなりの家格を与えることもできるし、悪くないかもしれない。それと、叔母様から引き剥がして本邸にやるなら令嬢としてではなくただの娘として動かした方が後々処理せずに済んで楽だし。
「ということは、エドヴァルド。切るのはテレーズ・ミレールだけで構いませんね?」
「はい。かの者には然るべき処罰を下すべきかと」
「わかりました。では、ジョゼットお姉様をこちらに呼び戻してください」
エドヴァルドはわずかに動揺したように私を見た。彼の言葉を静かに待つ。
「……彼女の前で、処罰を下すのですか」
「そうです。そして彼女が何を選ぶのか、我々は知らなくてはならないのです」
「仰せの通りに」
わかっている。それがジョゼット・セシルにとってどれほど残酷なことか知っている。でも、私はそうしなくてはならない。敵は斬り、膿を出す。ガルディオス家の存続にはそれが必要だ。
伯爵夫人などただの捨て駒だ。ジョゼット・セシルこそが敵の、そして私の本命なのだから。

テレーズ叔母様は客室に監禁されていた。呼び戻したジョゼットお姉様と共にその部屋に入る。私の姿を認めた途端に叔母様は金切り声を上げた。
「おお、レティシア!戻ってきていたのね、やっと!この無礼者をどうにかしてちょうだい!」
エドヴァルドを指差して喚く叔母様にジョゼットが後ろで「お母様……」と暗い声でつぶやく。私は振り向かずに目の前を真っ直ぐに見つめた。
「報告は受けています。私の留守に何があったのか」
「この男からでしょう?!違うわ、私はあなたのために、あなたを思って!」
「――だからキムラスカの者とやり取りをしていたのですか?」
懐から手紙を取り出してひらひらと振る。血相を変えてそれを掴もうとした叔母様をヒルデブラントが取り押さえた。
「な、なぜ!」
「ずいぶん変わったお友達をお持ちですね、叔母様。亡命の手配をしたのはどなたと言いましたっけ。確か、そう。クリムゾン・フォン・ファブレ」
私は自分の顔が歪むのを感じていた。
「ファブレ公爵がご親切にも旅券の手配をしてくださったのですね。教えてくださらないなんて悲しいです」
「違うわ!どこに証拠があるというの?!」
「証拠?そうですね、あなたのお友達はもうここには来れませんし」
捕らえた間者はすでに処分してある。プロらしく口を割ることはなかったのでここに連れてきても何もしてくれなかっただろうけど。
そんなわけでもう一つの証拠を取り出した。こちらも手紙だ。ジョゼットお姉様から渡された手紙。
「私も親切な方からお手紙をいただいておりまして。フェルナンド・セシルという方なのですが」
「フェルナンド!?そんな、フェルナンドが私を見捨てるわけないでしょう!馬鹿を言わないで!」
「セシル家を捨てたあなたがよくそのようなことを言えるものですね」
信じられないというふうに叔母様は喚くのにため息をつきたくなる。そう、結局見捨てられたのは彼女だけだ。夫からも、公爵からも。殺されるためにここに送られた哀れな人だ。
「セシル夫人、いえ、テレーズ・ミレール。とうに叔父様から離縁されているのです、あなたは」
「……な、」
「証書もあります。ご覧になりますか?」
封筒から取り出した証書を床に落とす。這いつくばったままヒルデブラントに拘束されている彼女は落ちてきた証書にかじりつくように身を乗り出した。
「嘘、嘘よ!嘘!こんなのは嘘!」
「困りましたね。ただのキムラスカ人のスパイを置いていたら私が皇帝陛下に疑われてしまいます」
「レティシア!私はあなたの叔母なのよ!?」
「仕方ありません。それなら、首級を差し上げるのが一番ですね。あなたの首を皇帝陛下にお贈りしましょう。きっと喜んでくださります、ねえ?」
ゆっくりと剣を抜く。元夫人は恐ろしいものを見るように、恐怖に引きつった顔をこちらに向けていた。そして私の後ろにいるジョゼットに叫ぶ。
「ジョゼット!止めなさい!この娘を止めなさい!」
「……」
「お母様の言うことが聞けないの!?ジョゼット!」
ジョゼットは答えない。私は心を殺して剣を振りかざした。
肉を斬るのは初めてなんかじゃない。誰かを殺すのも初めてなんかじゃない。血に塗れた剣を振って私は振り向いた。
彼女は口を抑えてこちらを見ていた。涙さえ流している。恐怖か、憎悪か。私は静かに彼女に尋ねる。
「――さあ、選びなさい。ジョゼット」
血の匂いが噎せ返るようだ。カーペットをきちんと変えないと。現実逃避に少しだけ思考を逸らす自分に笑いそうになった。
「母を殺した私に従うか、全てを忘れるか、それとも私に復讐を誓うか」
彼女をこちらに送り込んだファブレ公爵の狙いは最後だろう。伯爵として私は見え透いたスパイである元夫人を処分しなくてはならない。しかしジョゼットは生き残る可能性がある。私がまだ子どもで、非情に徹しきれないと思ったのだろう。彼女自身に罪はない。悔しいが私はその通りに動いた。
その場合、母を殺されたジョゼットはガルディオス伯爵を恨むだろう。たとえジョゼットに母を処分したことをガルディオス家が隠していても時が来ればそそのかせばいい。復讐心を煽り、手駒に仕立てる。それがシナリオだったはずだ。うまくいかずともファブレ公爵が失うものはない。
だが、元夫人は一度家族を捨てた。一番苦しいときにジョゼットには母がいなかった。それをどう思っているのか。
「私は……」
ジョゼットはか細い声で呟いた。目の前で母が殺されるのに何もできなかった彼女は涙を拭うこともせずに私に跪いた。
「あなたに忠誠を誓います。レティシア・ガラン・ガルディオス」
「それでよいのですね」
「はい。……これでいいんです」
どこかほっとしたようにジョゼットは私を見上げた。彼女はこの出来事を予感していて、そして受け入れたのかもしれない。私はエドヴァルドが差し出した布で刀身を拭って鞘に納め、ジョゼットに手を差し出した。
冷えた指が私の手を掴む。それでももう震えてはいなかった。


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