リピカの箱庭
幕間04

今も夢に見る。
全てを自らの手で滅ぼしたことを、覚えている。装置に繋がれてこの身は兵器となった。己こそが故郷を瘴気の海に沈めた張本人だった。ゆっくりと空から切り離されていくのを覚えている。そして彼女の言葉の続きを思い知った。
「にげて、ヴァンデスデルカ」
泣きそうな顔でそう言った幼い子どもはどうして知っていたのだろう。人の死にまつわるものは秘預言だ。第七音譜術士の才能だってなかったはずなのに。
「にげてください。でないとあなたは――」
けれど、そんなことはもう些細なことだった。グランコクマに療養に移ったあの守るべきひとを、巻き込まなかった事実だけは慰めになった。
「――このちを、ほろぼすことになるでしょう」
譜歌を歌いきったヴァンデスデルカは空を見上げていた。美しい青はもうどこにもない。助かったのはただ二人、ヴァンデスデルカと母だけだった。

やがて外殻大地に戻ったヴァンの耳にも幼いガルディオス伯爵の噂は届いていた。彼女がどれだけ賢く優秀であるかヴァンは知っていたし、そしてどれだけ心優しいかも知っていた。それでも思うところがなかったと言ったら嘘になる。
彼女は預言に詠まれていたことをきっと知っていたのだ。知っていて、ヴァンを助けだしたいと願った。預言に毒され思考を放棄したこの世界の中で唯一信じられるひとだった。ヴァンと同じ残酷さを知り、同じ憎しみを抱けたひとだった。ならば、同じ考えに至るべきだった。
けれど――レティシアはそうはしなかった。
彼女はガルディオス伯爵としての立場を選んだ。同じような戦災者を庇護し、マルクト帝国に利用される偶像になった。もしかしたら、水面下で企んでいるものがあるのかもしれない。
そんなものはないほうがいいとも思った。ヴァンに苦しんでほしくないと、泣き出しそうな顔で言った幼い子どもを覚えている。ヴァンも同じだった。こんな、希望も未来もない世界で彼女が苦しむ必要はない。レティシアが幼い心に策略を抱えて汚い大人たちを欺き傷つく必要なんてなかったはずなのだ。あの美しい故郷で、ただ穏やかであってほしいと願う。
だから、グランコクマを訪れることもしなかった。自分のことを忘れてしまってもいいとすら思っていた。レティシアは確かに預言を、それ以上の何かを知っているかもしれない。だがそんなものは関係なかった。詠まれた滅亡を、全てを覆すと決めたのだから。

それでも、ガルディオス伯爵がダアトへの使節団に参加していると聞いたヴァンは、思わず街中を探し回ってしまっていた。使節団に参加するような要人がその辺りを歩いているはずがないとわかっていてもそうせずにはいられなかった。一目でいい、無事を確かめたかった。最後に見たあの悲痛な姿から記憶を上書きしたかった。
結局ヴァンは確実にレティシアに会うために使節団との会食の会場近くまで足を運んだ。ドレスを身にまとい、絶えてしまいそうな月明かりの下でぼんやりと佇む彼女はヴァンの知っているままのレティシアだった。
足が勝手に進んでいた。口が勝手に動いていた。
「――戻られぬのですか」
この瞬間だけは二人はあの失われた栄光の地と同じ場所に立って、あの頃に戻っていた。レティシアは意外なほどヴァンの姿に動揺することなく、静かに答えた。きっと自分がこの場所にいることを知っていたのだろうと思った。
「気分が――優れないのです」
「では、お休みいただける場所へご案内いたします」
レティシアの前に回ると、碧い瞳で見上げられた。悲しみの色はないことにヴァンは安堵する。ごく自然に、いつも通りに、ちいさな主人に手を差し出していた。その手を離さなくてはならないことを知っていても、ヴァンは小さな冷えた手を再び取れたことに歓喜を覚えずにはいられなかった。
案内をして歩きながら話しかけてしまった自分の迂闊さをヴァンは後悔した。部屋に通したレティシアが、縋るような視線を投げかけたせいもある。フェンデ家の当主として戻ってきてはくれないのか、とガルディオス伯爵は尋ねた。それにヴァン・グランツが返せる答えは一つだけだった。
「どうして、ヴァンデスデルカ。私が無力だったからですか。あなたを救えなかったから」
細い指がヴァンの手を強く握りしめる。いいえ、とヴァンは息を吐くように答えた。それだけは違う。救えなかったとレティシアが嘆くことは耐えられなかった。
「私はあなたに救われています。誰よりもあなたに」
この世界で唯一ヴァンデスデルカを救おうとしたひとだ。預言に逆らい手を伸ばしたひとだ。それが届かなかったことを無力だとは言わせられない。
「心配なさらないでください、レティシアさま。いつか必ずあなたの元へ参ります。あなたはそれすら知っているのかもしれませんが」
そうだ。預言に毒された世界を、預言に記された滅亡をかならず覆す。そうして、世界でただ一人の正しいひとを故郷に返さなければならない。
レティシアはヴァンの言葉にいっそう顔を泣きそうに歪めた。そんな顔をしてほしくはないと甲に唇を落とす。騎士としてそばに仕えることを選べないかわりに、せめて今このときだけは慰めになりたかった。
「ヴァンデスデルカ、」
最後に呼びかけたその声はかすれていた。ヴァンは振り向かずに立ち止まる。そうしないと戻りたくなってしまうから。
「決して――死んではなりません」
唇を吊り上げてヴァンは嘘を吐いた。
「仰せの通りに。レティシア様」

今でも夢に見る。
ホドで過ごした日々を夢に見る。あの日、研究所に忍び込んだ小さな子どもと手を取って逃げ出せていたなら何が違っただろう。
――できないことを夢に見る。
この日、幼い少女の手を取れていたなら、フェンデの騎士としてガルディオス伯爵の元へ戻っていたのなら、何が違っただろう。
悔いることはない。ヴァンは自分の進むべき方向を知っている。騎士の忠義というのなら、なおさら責務を果たすべきだ。
夢に見続ける限りヴァンは忘れない。選ばなかった苦しみこそがヴァンデスデルカの道しるべだった。


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